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神原喜作は、殊に自分が最初に口火を切つた責任者だといふ自覚があるらしく、あのづぶ濡れになつた下半身がいつのまにか生乾きになり、寒さのために硬はゞつた裾をばくばくさせ、方々を歩きまはつて説いた。練吉はその間、一種異様な緊張さを現していた。彼は、ごくたまに目瞬きをしていたが、顔はかつて見せたこともないやうな生真面目さで蔽はれ、時々さつと青ざめ、焚火の前に来ると俄かに紅らみ、絶えず房一の傍から離れなかつた。
盛子は時々半ば無意識に呟いた。
「よし、それでは預つとかう」
練吉と房一は、川沿ひの路を、肩を並べて自転車を走らせていた。
「だから大事に大事に歩きましたよ。石ころの上を踏んだら一ぺんですからね。いつもこんなに大事に下駄をはいたらさぞ永持ちすることでせうが――」
「さつき、河原で、先生に会つたんでさあ。――往診に出かけなさる途中でね」
それは、やつぱり何となく「役所」臭かつた。
山腹の中ほどの曲角で房一は立ちどまつて汗をふいた。今ではもう真下にひろがつて見える桑畑の外れにぐつと落ちこんだあたりを曲りながら流れる川の水流がぎらついていた。その下手に、河原町のいろんな形の屋根がかたまり、とぎれ、又つゞいていた。このあたりは子供の時分に遠走りに遊び歩いて来たことがある位で、房一には殆ど縁のない場所だつた。殆ど二十年ぶりだらう、そこに立つて様子の変つた河原町を眺めていると、房一は何とはなしにゆるい感動の湧いて来るのを覚えた。こゝで見る河原町はその小粒の屋根のせいか、手にとつて楽しむことができさうに、何だかなつかしかつた。そのなつかしい何ものかは、彼の記憶の遠くに彼の存在の奥深くにつながつていた。しかも、今彼自身は以前には思ひもかけなかつた河原町の医者としてこゝに立つている。
「いや、たいしたことはないだらう、と思ふ。鼻血を出したからね。軽いとは思ふんだがどうも老としよりだから経過しだいでは副次症を起さんともかぎらんしね。そのへんのことが僕にはよく判らないんだ」
庄谷は自分よりは高い相手から見下されるのを避けるやうに少し遠のくと、房一の改まつた服装を胸から下にかけてぢろぢろと見た。
盛子は急に思ひ出して不服さうな声を出した。だが、それは房一に向つて甘えながら不服を云つているやうな調子を含んでいた。
宿の浴衣ゆかたを着たままで行く人もあるが、行儀の好い人は衣服をあらためて行く。単に言葉の挨拶ばかりでなく、なにかの土産みやげを持参するのもある。前にもいう通り、滞在期間が長いから、大抵の客は甘納豆とか金米糖とかいうたぐいの干菓子をたずさえて来るので、それを半紙に乗せて盆の上に置き、御退屈でございましょうからといって、土産のしるしに差出すのである。
患者の脈を見たり、舌を出させたり、背部を指で押し、打診し、薬を与へたりすること、そんなことは誰にだつて出来る。それからあの、開業医にはぜひとも必要だと云はれている社交的な才能、お世辞を云つたり、砕けた気の置けない態度で抜かりなく会ふ人ごとの心をつかむ――「ふん」と、房一は独言のときに自然と目の前につくり上げるもう一人の自分に向つて冷笑してみせた。
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