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「なにぶん山の中でございますから、折々にこんなことがございます。」
房一は擽くすぐつたさうな顔をしていた。
「あら、お帰んなさい。随分早かつたのね。もう済んだんですか」
それから一二時間たつた頃には、上の町の予定した家をあらかた廻つて、房一はそれが今日の挨拶まはりの一番の目的だつた大石医院の手前にさしかゝつていた。家を出た最初から、路々彼はそのことばかり考へていた。老医師の正文の方は、四五年かあるひはもつと前に、自転車に乗つて往診に出かける姿を見かけたことがある。息子の練吉には、彼が夏休みか何かに医専の学生服を着ているのに路上で会つたことがあるから、多分それはずつと前だつたにちがひない、それも擦れちがつただけで、練吉の方では房一を気にとめもしなかつた。房一には老医師の方は今もこの前と変りのない姿を想像することができたが、練吉の方はどんな風になつているか見当がつかなかつた。彼等はどんな様子でこの自分を迎へるだらう、それから自分はどんな風に話を切り出したものだらう。「はじめまして」もをかしい、二人とも全然知らぬ間ではないのだからな、「しばらくで御座いました」と云ふかな、これもどうも変だな、――それからまだ言葉にはならない、いろんな言葉を頭の中で云つてみた。相手が頭を下げる、こつちもお辞儀をする、そんな恰好がひとりでに頭の中を横切つたり、消えたりした。房一は漠然と興奮していた。
「はあ」
「お松ですか?お松は半之丞の子を生んでから、……」
と、練吉は房一の方をふりむいた。
小谷はやさしみのある顔をぽつと紅らめ、いくらか饒舌になり、それと共によけいきいきいする声で話した。
「おれはまだ一本立ちの医者といふわけにはいかない」
「お前、往診に出てた?」
と、ゆつくりはじめた。
「このまゝでは責任者を出さなくてはならなくなる。手落ちは向ふにあるとしてもですよ」
彼の現実的に鋭い頭が働きをとめたわけではなかつた。又、あの身うちから溢れるやうに頭を持上げて来る野気を失つたわけでもない。それらはたゞ、急がば廻れといふ風にどつかりと彼の中に腰を下し、緩漫な暢のびやかな四囲の空気と調子を合せることを覚えこんだのである。もともと彼の野心といふものには格別はつきりした目標があつたのではない。漠然とした、無意識のうちに魂の孕はらむ夢といつた風なものだつた。が、今やその魂はどうにか方向を見つけ、その形づくらうと欲しているものを予感し、穏かに、着実になつた、といふやうに見えた。
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