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茶器を持つてこちらへ近づきながら、盛子自身も何となく眩しいやうな目つきをしていた。それは彼女に溢れている若さだつた。その声で想像させたやうな細身ではなく、むしろ中肉だつたが、背が高いので一種の優しみが現れていた。
「今、あんたの便をしらべてみたがね」
といふやうな声を出して、彼は満足と緊張とのためにあの調子外れな表情になつて、撓しなつた竿をしつかりと引きつけはじめた。
練吉は小面倒なことが大嫌ひだつた。それに、正雄の父親として世話を見てやるなどは不似合だと自分でも思つていた。が、そんな風に彼自らだらしないと自認していたにもかゝはらず、練吉にはやはり良家の子弟らしい身だしなみのよさと一種の潔癖さが現れていた。そして、この点にかけては、彼も茂子に対する正文夫婦の見方に同意していた。
次は客の湯の方へはいっているときである。例によって村の湯の方がどうも気になる。今度は男女の話声ではない。気になるのはさっきの溪への出口なのである。そこから変な奴がはいって来そうな気がしてならない。変な奴ってどんな奴なんだと人はきくにちがいない。それが実にいやな変な奴なのである。陰鬱な顔をしている。河鹿かじかのような膚をしている。そいつが毎夜極った時刻に溪から湯へ漬かりに来るのである。プフウ!なんという馬鹿げた空想をしたもんだろう。しかし私はそいつが、別にあたりを見廻すというのでもなく、いかにも毎夜のことのように陰鬱な表情で溪からはいって来る姿に、ふと私が隣の湯を覗いた瞬間、私の視線にぶつかるような気がしてならなかったのである。
対島つしま沖で日露海戦が行はれ、敗残艦の一部が日本海沿岸のこの地方の沖合までのがれて来て沈没したのは十年ほど前のことである。乗員は白旗を掲げてボートに分乗し、沿岸の砂浜に着いた。その前、海戦の最中には海岸附近の人家の障子が断続的にとゞろく砲声で鈍く不気味に響きつゞけた。もとより海戦が行はれていると知るわけもないので、たゞ漠然と不安だつたが、その気分の抜け切らないうちに、たとへ白旗を掲げているとは云へ突然現れたロシア兵達の姿に、海岸の住民は一時かなりびつくりしたものである。間もなく近くの兵営から軍隊が駆けつけて、それ等の投降兵を吉賀町附近の寺院に一時的に収容した。彼等がそこにいる間、附近の人達は毎日弁当持ちに草鞋わらぢばきで押すな押すなで見物に出掛けた。その当時、徳次は二十前の若者だつた。
たとい健康の人間でも、往復の長い時間をかんがえると、一泊や二泊で引揚げて来ては、わざわざ行った甲斐かいがないということにもなるから、少くも四、五日や一週間は滞在するのが普通であった。
思はず正文は笑ひかけた。それを隠すやうに小首をかたむけてわきを向くと、又房一の話を傾聴する恰好になつた。そして、一度起きなほつた背はだんだんと柔かく前こゞみになつた。
年は五十過ぎ位、見るからに小柄な貧弱きはまる痩せつぽちだが、何となく自分の身体を大きく見せようと絶えず心を配つているらしい足の踏ん張り方をしていた。手足も、顔の皮膚もうすく日焼けがし、乾いて、骨にくつついていた。が、頭髪はそれとは反対に驚くほど真黒で、きちんと櫛目を入れて分けられ、鼻下にはやはり念入りに短く刈りこんだ漆黒の髭をはやしていた。それは何かちぐはぐな印象で、中農の地主にも見え、町役場の収入役のやうでもあり、又どこかに馬喰ばくらう臭いところもあつた。だが、一貫して現はれているのは、小柄の者がさうである場合特に目立つ、そして見る者の咽喉のあたりを痒かゆくさせるやうな、あの横柄わうへいさであつた。
ふいに冷気が盛子の咽喉もとから胸の中へしみこんだ。その時、夢の中でよくつかめないながらも何か急に閃ひらめき過ぎる考へのやうに、これが結婚といふものか、これが仕合せといふものか、といふ思ひがどこからともなくやつて来た。しかもそれは考へた瞬間にさつと身をひるがへして去り、だが印象だけは強くのこる、あの微妙な閃きだつた。
房一は早くから競馬を見に行つていた。観覧席で相沢に会つたので挨拶した。訴訟の話を聞いた頃からずつと会はなかつたのである。相沢はあの特長のある黒味のひろがつた目で、やはり馴れ馴れしげにぐつと身体を近寄せて房一を眺め、彼の馬が来ていることを教へた。席が混んでいたので、それきり傍へ寄る機会がなかつた。休憩のとき、葭子張よしずばりの便所へ立つたかへりに、ちやうど相沢が向ふからやつて来るのにぶつかつた。彼はカーキ色の乗馬ズボンに拍車のついた黒革の長靴をはいていた。歩いて来るときに、その拍車が鳴つた。
「いゝよ、君。帰りたまへ、その方がいゝんだから」
「さう、カワラケ、カワラケ云ひなさんな」
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