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    その子供染みた好奇心に輝いている横顔は、この老人の胸の奥から恐らくその年齢と調子を合せてゆつくりと流れて来る悦びのためもあつたらう。その悦びの源泉はもとより房一にあつた。

    家の入口には二軒の百姓家が向い合って立っている。家の前庭はひろく砥石といしのように美しい。ダリヤや薔薇ばらが縁を飾っていて、舞台のように街道から築きあげられている。田舎には珍しいダリヤや薔薇だと思って眺めている人は、そこへこの家の娘が顔を出せばもう一度驚くにちがいない。グレートヘンである。評判の美人である。彼女は前庭の日なたで繭まゆをにながら、実際グレートヘンのように糸繰車を廻していることがある。そうかと思うと小舎ほどもある枯萱を「背負枠」で背負って山から帰って来ることもある。夜になると弟を連れて温泉へやって来る。すこやかな裸体。まるで希臘ギリシャの水瓶である。エマニュエル・ド・ファッリャをしてシャコンヌ舞曲を作らしめよ!

    盛子の顔からはもうあの一人でうれしがつているやうな無邪気さは消えていた。代りに現れたものは物柔い優しさに満ちた注意深さだつた。

    さう、とりとめもない感慨にふけつていた房一は、ふと、坂路のずつと上の方でごく小さいピカリと光るものを感じた。自転車で誰かが降りて来るのであつた。それはかなりな速さで茂みの間に現れ、又見えなくなり、やがてまつすぐに見通しのきく曲り角のところに、はつきりと大きく現はれた。銀鼠色のかなりにいゝ品らしいソフト帽が見えた。その下に光る眼鏡、面長な白い顔、ペタルの上で、ブレーキを踏んでいるチョコレート色の短靴。――

    房一には連れが二人あつた。

    「うん、ドイツ兵の捕虜だ」

    房一はこれまでにも河原町に帰つて一医者としての生涯を始めようと考へないでもなかつたが、老父の道平をはじめ伯父や身内の者すべてがさう希望していると知つたときに、唯々いゝとしてその云ふところにしたがふ気になつた。

    前には俄かに急になつた路面がいつのまにか狭せばまつて来た山合ひにぐつととつついているのが見えた。房一はうつすらと汗ばんでいた。だが、彼の見たものは路や山肌ではなかつた。彼の前面には何かしら温気うんきのある靄もやに包まれたやうな、不確かな、だが一歩ごとに物の形の明かになつて来る、汗ばみながらその方へ突進したい気を起させる、あの漠とした未知の世界があつた。

    「なあ、先生」

    「なにぶん山の中でございますから、折々にこんなことがございます。」

    並んで立つと、いきなり

    と云ふ、思ひがけないほどはつきりした声で差し出した。そして、又淡泊なさつさとした足どりで台所の方へ去つた。

    その外から見れば屋根と築地塀だけのやうな家の前で、三人の男が立つてしきりと話していた。

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