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    と、腰をたゝいてみせた。そこにはまだ一足、紙衣の下からはみ出すやうに、ぶら下つていた。

    「うむ、さうか。玄関のことか」

    温泉宿へ一旦いったん踏み込んだ以上、客もすぐには帰らない。宿屋の方でも直すぐには帰らないものと認めているから、双方ともに落着いた心持で、そこにおのずから暢のびやかな気分が作られていた。

    又走り出して、草の中に鼻を突つこんだ。が、今度はすぐもどつて来た。房一は緊張した表情をつくつて、その背をつかんでぐつと押した。

    それから間もなく、馬の世話は房一の手に委ゆだねられることになつた。彼は一心に手入をした。彼よりも馬の方が身綺麗であると思はれる位に馬は毛並みも艶々として来た。河土堤の上の長い路で彼は馬を疾駆させるのが常であつた。裸馬の背から腹にかけて一本の木綿帯をくゝりつけ彼は足の親指をその帯にはさんだだけで、小さな逞しい肩を前こごみに手綱をゆるめるために両腕を前に曲げひろげ、鼻の穴をひろげて、馬を走らせた。それは町とは河をへだてた反対側の土堤で、路ははるか上手の殆ど山に突きあたる地点まで伸びていた。彼が馬を奔はしらせるにしたがつて、河苔かはごけの匂ひや山の草木の香などがぱあつと彼をも馬をも包み打つて来る風の中でした。未だ様々な思念や野心などの形づくる場所のない彼の小さな頑丈な肉体の中で、彼の魂は何を欲し何を求めていたのか、裸馬の背でたえず路の前方の或る一点を見つめ、はげしい動揺に身を任かせている彼の眼には、一種大胆不敵な歓喜の情が燃え閃めいていた。河向ふの磧かはらで遊んでいる町の子達は、蹄ひづめの音で房一の姿を認めた。あたりの物静かな、音といへば河の瀬の低い単調な音ばかりでけだるいよどんだ空気の中に突然としてはげしい蹄の音が起る。それは河を越し、町の裏の山腹に反響して、何ごとかあたりをかき乱すやうに物々しく聞える。はじめは房一の姿は見えない。馬だけが、首を張り出し尾をなびかせ、荒々しく何ものか掻きこむやうな形に前脚を速く閃めくさまに繰り出して奔はしるのが見える。そして、その首すぢにつかまつて馬と同じやうに前屈みに身体を張り出した小粒のやうなもの、房一の形が眼に入るのであつた。呼んでも聞えはしない。また、聞えても彼はふりむきもしない。そのまゝはるか上手の方に小さく認めがたくなる。と思ふと、しばらくして又前と同じやうな蹄の音がして、それはしだいに迫つて来て、今度は房一の顔が待ちかまへている子供達にもはつきり認められるやうに思はれる、だが、彼は往きと同じに得体のしれない荒々しい一塊の悪魔の子のやうに、子供達の呆然と眼を瞠みはり立つている対岸を尻眼にかけて疾駆し去るのであつた。

    徳次は足を踏ん張つて立ち、まだそこら中を見まはしていた。房一はちらりとその顔を見たが、黙つて片づけていた。

    それから、房一は歩きながら漠然とした沈思に落ちた。

    その隣りは木地屋である。背の高いお人好の主人は猫背で聾つんぼである。その猫背は彼が永年盆や膳を削けずって来た刳物台くりものだいのせいである。夜彼が細君と一緒に温泉へやって来るときの恰好を見るがいい。長い頸くびを斜に突き出し丸く背を曲げて胸を凹へこましている。まるで病人のようである。しかし刳物台に坐っているときの彼のなんとがっしりしていることよ。彼はまるで獲物を捕った虎のように刳物台を抑え込んでしまっている。人は彼が聾であって無類のお人好であることすら忘れてしまうのである。往来へ出て来た彼は、だから機械から外して来たクランクのようなものである。少しばかり恰好の滑稽なのは仕方がないのである。彼は滅多に口を利かない。その代りいつでもにこにこしている。おそらくこれが人の好い聾の態度とでもいうのだろう。だから商売は細君まかせである。細君は醜い女であるがしっかり者である。やはりお人好のお婆さんと二人でせっせと盆に生漆きうるしを塗り戸棚へしまい込む。なにも知らない温泉客が亭主の笑顔から値段の応対を強取しようとでもするときには、彼女は言うのである。

    「しかしお松の生んだ子はほんとうに半之丞の子だったんですか?」

    と、彼は恐しく手まどつて答へた。

    「さうですが、それはさうにちがひないが――」

    もつと別なものが、医者以上の或る者が必要だつた。房一は全身でそれを感じていた。たとへ彼が自分を高く持していたところで、河原町の人は彼を高間道平の息子としてより以上にはあまり見ていないことは、房一にはよく判つていた。彼には免状もあるし、開業するのを誰もとめ立てすることはできなかつた。それだけの話だつた。それは町の人達がこれまで抱いて来た「お医者」の観念とはまるきり別だつた。だから、彼等はいまだに房一が往診鞄などを提げて歩いているのにぶつかると、何となく半信半疑な面持を、時には曖昧なうすら笑ひを浮べたりする。

    「何をするかつ」

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