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職業柄人見知りなんかはしていられないし、又さういふことにかけては密ひそかに自信を持つていた房一も、少したぢたぢとなつた。そのはずみに、房一は路々考へて来た挨拶のきつかけを度忘れてしまつたほどである。
「往診?ふむ、ふむ」
房一はその時逸いち早く、横に寝かされている男の投げ出した手首に血がかすりついているのを、そして寝ながら立てている片足のズボンの膝のあたりにもどす黒い斑点の沁みているのを見てとつた。
半之丞の話はそれだけです。しかしわたしは昨日きのうの午後、わたしの宿の主人や「な」の字さんと狭苦しい町を散歩する次手ついでに半之丞の話をしましたから、そのことをちょっとつけ加えましょう。もっともこの話に興味を持っていたのはわたしよりもむしろ「な」の字さんです。「な」の字さんはカメラをぶら下げたまま、老眼鏡ろうがんきょうをかけた宿の主人に熱心にこんなことを尋たずねていました。
例の奉祝行列のお終ひに小谷から慰労宴をやらうと云はれたときに、房一は道平が練吉の診察を受けたまゝになつているのを気にかけていたことを思ひ出し、練吉をも加へて小谷と二人を招待しようと云つたのだが、小谷はそれはそれ、これはこれと云つて聞き入れなかつたので、改めて今二人を料亭染田屋に招いたのであつた。
「途中から――?」
「さあ、殺せ。――うむ、え、さあ。――え、え」
温泉宿へ一旦いったん踏み込んだ以上、客もすぐには帰らない。宿屋の方でも直すぐには帰らないものと認めているから、双方ともに落着いた心持で、そこにおのずから暢のびやかな気分が作られていた。
男は語尾に力を入れて、房一の眼の中をのぞきこんだ。
半シャツの男は房一の前に来て、はじめてお辞儀らしい格好をした。
「もはやお膳も据ゑていたゞきましたし、これで十分頂戴いたしたも同然でありますから、甚だ失礼ながらお先きに御免を蒙ります」
「まだつて、はじまつたばかりですよ」
徳川末期に生れ、慶応、明治、大正と社会的な大変動の中を生きて来ながら、直造の生涯は世の多くの庶民と同じにその根底は単純きはまるものだつた。なるほど、今は白い曇りのできかゝつた直造の眼は多くのことを見て来た。長州の藩兵が疾風のやうに天領を席捲し東に通過した時には、土蔵に封印をし、大戸を下して一家中が山の上に逃げた。つゞく御一新はもとより、憲法発布も、日清日露の戦役も、更に今欧洲では大戦も始つていた。日本は青島を攻略した。だが、すべてこれらの出来事に対しても、直造達は別に広汎な知識も予見も持ち合せていなかつた。たゞ、彼等は見た、そして大きな流れにしたがつて生きた。それだけだつた。それは人為のごとくして実は巨おほきな自然だつた。或る時は曇り、或る時は晴れ、やがて突風が――そして稲は実り、刈られ、――あらゆる天変地異が、あの逆まく濁流が橋を流し堤を崩し、人家をその中に浮き沈みさせ、又木は薙なぎ倒され、作物は根こそぎにされ、――だが、それはやがて過ぎて行く。過ぎ去ると共にすべてはけだるい一様な調子の中にのみこまれ、遠のき、今日はじまる事もやがては又同じく過ぎ去るであらうと確信させるに至る、あの永い月日といふものの不可思議、その中に野や山と同じに自然に確しつかりと地面に立つて現れる物がある。それは「家」だつた。あの黒光りのする欅の柱、去年も一昨年も同じ所に造られた燕の巣。所々が剥げ落ち、雨で黒い汚点しみができ、又上塗りをされた白壁。あのかすかな弛みを見せながらなほ未だに堂々とした線を中空に張りわたしている苔こけのついた屋根。――この家が直造の安心を支へて来たのである。
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