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一わたり済むと、練吉は最後にもう一度注意深く病人の顔をぢつと眺め、
「ねえ」
「何しろ、わや苦茶だ」
盛子は急に思ひ出して不服さうな声を出した。だが、それは房一に向つて甘えながら不服を云つているやうな調子を含んでいた。
「どうしたい、君はその恰好をまだ見せたい気かい」
それを今又さつぱりとやつてしまつたのだ。髯のなくなつた彼の顔は、ずつと前のそれに逆戻りはしないで、病後の面変りも手つだつて、その円つこい縮ちゞかんだ輪郭が何かしら小さく、愛くるしげに見えた。
いつもはその不器用な容貌の蔭に眠つている不敵さ、だが何か圧迫を加へられると忽ち跳ね起きて来る反撥する房一の気質は、同時に圧迫しようとかゝるものを嗅ぎつける点でも敏感であつた。その敏感さで房一は相沢が一方では彼を賞ほめ上げながら逸早く往診を求めたのはその恩恵と好意によるものだと知らせたがつているのを見抜いた。こんなことになると、房一はふだんよりなほ茫ばうとした眠たげな眼つきになる。その目でちらりと相沢を眺めたのである。動物達の間でよく起る出会つた瞬間に相手の方を見究めようとする、あの本能的なすばやい判断力の点では、房一は生れつき得手だつたが、困苦の暮しの間にそれはなほ鋭く力あるものとして育つた。理性といふよりはむしろ動物的なこの嗅ぎつける力のお蔭で、今房一はたゞ鼠のやうな眼をした小柄な男を見ただけであつた。それで十分であつた。房一は前より落ちついて相沢を気にかけなくなつた。
房一は目を上げて何か訊きたさうにした。それを押へるやうに、
このポインタアの雑種は、房一の往診にはどこへでもついて来た。いゝ路づれだつた。
今の家は比較的街に近くて、この上もなく閑静だ。私の書斎の下は音無川で、一方は水田であり、自分の家の物音以外は殆ど音というものがない。その上、温泉もあるというから、非常にぬるい温泉だと仲介者も差配も家主も念には念を入れてダメを押したのを承知の上で越してきた。
「あなたは、多分――」
房一はあの騒ぎの晩、土手に駆け上つた瞬間高張提灯の明りで見合つた喜作の、禅坊主めいた精悍な顔が、その後度々会つたにもかゝはらず、妙にその時の顔だけがいつまでも印象に残つていた。
あのぴかぴか鋭い光を放つメスを危険もなく取扱ひ、聴診器をあてがひ、胸だの腹だのを指でたゝき、雲をつかむやうな厄介な重苦しい病気といふものを探りあて、ピンセットでつまみ出し、ふしぎな光沢のある粉末を与へ、すると激しい痛苦がたちまち遠のき、一日か二日でぴんぴんしてしまふ、その玄妙と神秘にみちた医者といふものの働き、――徳次はかつてそんなことを考へたことはなかつた。今までの彼にとつては、医者は呼べば来てくれる者、病気を癒してくれる者、単にそれだけだつた。それ以上のことが何で必要があつたらう。ところが今や、その縁のない漠然としていた「お医者」が突然彼の身近かに姿を現したのだ。それは何となく不思議なことだつた。同時に親しいものだつた。これまで彼が立入ることもできないと思つていたもの、理解しがたいものとしていた物が、今目の前に手で触ることもでき、その縁に手をかけて中をのぞいてみることもできさうだつた。この身びいきからして突然ひき起された克明な興味を以て、彼は房一を、その中に在る医者といふものを熱心に眺めた。
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