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房一は目を上げて注意深く道平を見た。
――もともと、練吉は房一から対診を頼まれたことさへ少からず意外だつた。これが若し、自分の場合だつたら、それは弱味を見せるといふことだつた。彼はまだ、房一に対診を頼むやうなことはつひぞ考へたことはなかつたし、これから先だつてそんなことを考へつきはしないだらうと云ふより、練吉には漠然と、房一を自分と同じ医者だと見る気にはいまだになれなかつたのである。
「あのう、笹井へ往診がございますが」
答へながら、彼は紅くなつていた。
やがて、鈍のろい、呆ぼけたやうな返事をしながら、房一の湯上りでよけい赤紅あかく輝く顔がのぞいた。彼はゆつくりと兵児帯をまきつけていた。だが、その様子とはおよそ反対な強きつい、きらりと光る目で、盛子のうしろに、半泣きになつた、取乱した青い顔で立つている徳次の妻、ときを見た。
だが、時には彼等の間にも、まるで一日中陽に温められて色づいた麦畑からそのまゝ入つて来たやうな男もあるのだつた。肥つて日焼けがして彼は自分から病気を診みてもらひに来たくせに、房一の呉れる薬を不審さうに眺めて、そんな病気のあることを信じないかのやうに頭を傾かしげて、それから大声で(それは麦畑の穂の列を吹き抜けて行く、乾いた快い風のやうな響きを帯びていた)彼の持牛についた虱しらみをとる薬はやはり人間にも同じ効きき目めがあるのかね、と訊いたりするのであつた。
一瞬、まはりの者は皆黙つていた。わけを知らないのは今泉だけらしかつた。その意識のために、今泉はひどく大切な物をとり落したときの呆然とした眼で庄谷を眺めていた。もともとどこか空虚な感じのする彼の顔は、眼がとび出して底まで空つぽになつたやうに見えた。
「ね、お母あさん。これ、こんなに汚いでせう。もう少し……たいんですけど。……でせうねえ」
房一は患者の前にもどつて来た。
「だいぶ、様子が変りましたな」
さう声をかけながら、練吉は近眼鏡の下から切れ目をぱちぱちさせ、気安げに、眠つている道平の顔の上にのぞいた。
向ふでも房一を認めたらしい。さう思はれる仕方で、ぐつと速力をゆるめながら、だんだん近づいて来る。はじめは房一の方にこらしていた目を途中で一寸伏せ、又何気ない風にこちらを眺めながら降りて来た。
それにしても、今日の温泉旅館に宿泊する人たちは思い切ってサバサバしたものである。洗面所で逢っても、廊下で逢っても、風呂場で逢っても、お早ようございますの挨拶さえもする人は少い。こちらで声をかけると、迷惑そうに、あるいは不思議そうな顔をして、しぶしぶながら返事をする人が多い。男はもちろん、女でさえも洗面所で顔をあわせて、お早ようはおろか、黙礼さえもしないのが沢山ある。こういう人たちは外国のホテルに泊って、見識らぬ人たちからグード・モーニングなどを浴あびせかけられたら、びっくりして宿換えをするかも知れない。そんなことを考えて、私はときどきに可笑おかしくなることもある。
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