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「ほう、ほんに!みんなある」
「連れっ子をして行ったです。その子供がまたチブスになって、……」
「さうです、一寸」
と云つたまゝ、もの珍らしげに、しばらく眺めていた。それから、相手にその意味が判るやうに微笑をし、目くばせをしながら、
私が寐る前に入浴するのはいつも人々の寝しずまった真夜中であった。その時刻にはもう誰も来ない。ごうごうと鳴り響く溪の音ばかりが耳について、おきまりの恐怖が変に私を落着かせないのである。もっとも恐怖とはいうものの、私はそれを文字通りに感じていたのではない。文字通りの気持から言えば、身体に一種の抵抗リフラクシオンを感じるのであった。だから夜更けて湯へゆくことはその抵抗だけのエネルギーを余分に持って行かなければならないといつも考えていた。またそう考えることは定まらない不安定な、埓らちのない恐怖にある限界を与えることになるのであった。しかしそうやって毎夜おそく湯へ下りてゆくのがたび重なるとともに、私は自分の恐怖があるきまった形を持っているのに気がつくようになった。それを言って見ればこうである。
「杉倉まで――」
「ふむ、ふむ。――どなたでしたかね。お名前は?――ふむ、ふむ。――住所は?いや、字あざはどこでしたかな――ふむ、ふむ」
その浴場は非常に広くて真中で二つに仕切られていた。一つは村の共同湯に、一つは旅館の客にあててあった。私がそのどちらかにはいっていると、きまってもう一つの方の湯に何かが来ている気がするのである。村の方の湯にはいっているときには、きまって客の湯の方に男女のぽそぽそ話しをする声がきこえる。私はその声のもとを知っていた。それは浴場についている水口で、絶えず清水がほとばしり出ているのである。また男女という想像の由よって来るところもわかっていた。それは溪の上にだるま茶屋があって、そこの女が客と夜更けて湯へやって来ることがありうべきことだったのである。そういうことがわかっていながらやはり変に気になるのである。男女の話声が水口の水の音だとわかっていながら、不可抗的に実体をまとい出す。その実体がまた変に幽霊のような性質のものに思えて来る。いよいよそうなって来ると私はどうでも一度隣の湯を覗のぞいて見てそれを確めないではいられなくなる。それで私はほんとうにそんな人達が来ているときには自分の顔が変な顔をしていないようにその用意をしながら、とりあいの窓のところまで行ってその硝子ガラス戸を開けて見るのである。しかし案の定なんにもいない。
右手の台所の方ではしきりと物音がしていた。道平より先に朝早くから手つだひに来ている房一の義母と、まだ結婚して間もない盛子とが土間を掃いたり戸棚を拭いたりしているのだつた。
と、ふしぎに叮寧な言葉使ひになりながら、鼻汁と埃とがごつちやになつて真黒になつた子供の方にしやがみこんで、家の方へ向きを変へてやる。
「ふうむ」
それは何となく「素人しろうとくさい」滑稽な云ひ方だつた。手こずつた主人がしらせたので、徳次の家からは家内のときが駈けつけて来た。泣いてとめた。半ば耄碌もうろくした父親も足をひきずつて来た。だが、騒ぎが大きくなるにつれて、徳次は前後を忘れてしまつた。はじめは煩うるさがつていた鬼倉もたうとう脅おどすつもりで短刀を抜き食卓の上に突き立てた。徳次は瞬間ぐつと大きく開けた眼をその白く光るものの方へ近づけた。もう何だかよく判らなかつたのである。やがて、突然、彼は見た。その不気味な白い刃を。或る一つの意識が、その危険さを認め、身ぶるひをさせた。が、すぐに、あの忘れがたい憤り、血に対する恐れと、それに反撥する怒りとがいつしよになつて噴き上つた。だが、次の瞬間には、酔ひの廻つた彼の頭はその光るものを忘れさせた。たゞ怒りだけがのこつて、燃えて、それも何かしらあたりの泣き騒ぐ音とごつちやになつてしまつた。彼は、鬼倉にぶつかつている気で、しきりと食卓の堅い縁にはだけた胸をすりつけながら叫んだ。
間もなく神原直造は一種段取りのついた慇懃いんぎんな荘重さともいふべき様子でゆつくりと来客の居並んだ前へ進み出て挨拶した。彼には紋付の羽織に袴といふ形がいかにもよく似合つていた。その稍角張つた肩のあたりにも、それから、一体に老いて強さはなくなつているが、まつ直ぐな鼻筋だの、その上にかつきり線を引いたやうな白毛まじりの太い眉だのの上には、ちやうど彼の身につけた袴の襞ひだと同じやうに、一種云ふべからざる古雅な端正さがあり、それは同時に低い枯れた声音こわねの中にも響いた。
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