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    「こんなところで初対面のご挨拶をしようとは思ひがけなかつたですね。――いや、初対面といふわけでもないんですな」

    「ねえ、御苦労なこつた」

    その間に、房一は駆けつけて来た駐在所の加藤巡査としやがみこんで、しきりと善後策を講じていた。傍には練吉も、神原喜作も、小谷も、それから徳次の顔まで見えた。徳次はきよろりとした眼を一層大きくし、加藤巡査と房一とが話す様子を熱心に見まもり、時々うなづき、口をもごもごさせて、何か云ひたげにしていた。加藤巡査はさつきから人々の塊りの間を説得して廻つていたが、無駄であつた。今や驚くほどの寒さが感じられたにかゝはらず、加藤巡査の顔は疲労し、汗を浮かべ、しきりに手真似を入れて話していた。明かに出張所側の手落ちだつた。が出張所の側では門を固く鎖ざし、どこかへ引きこんでしまつているので、話のつけやうがなかつた。

    父親の眼を開けさせてみる。すると、その白い曇りのできた、大きな、力のない眼の中には、医者としての房一が知り得る以上のもの、何かしら深いほのめくものが、何かしら房一自身の奥にもぢかにつながつている、微妙な、過去の記憶といつしよくたになつた或る物が、ふしぎな力で彼の方を眺めているのを感ずる。はだけた胸に生えている一つまみの白毛、ひからびて弾力を失つた皮膚、横臥しているために腹部が落ちこんで、そのためによけい突き出すやうに持上つて見える肋骨の形、茶色がかつた紫色の痣あざのやうにぽつりとひろがつている乳部の斑点だの、――さういふものは、房一の扱ひ慣れている「患者の肉体」ではなく、一つ一つが見覚えのある特長を帯び、そこに父親といふものの形を感じさせ、それまで迂濶にも忘れていたもの、隠れていたもの、眠つていたもの、この露あらはになつた肉体と房一との間に結ばれているあの無数な、生まな感情が、おびたゞしくふしぎな強さで押しよせた。それと共に、何だか後うしろめたいやうな、愛情の混乱と云つた風な奇妙なこんぐらかりが、房一の内心に苦痛と動揺とをよび起した。

    いきなり忙せはしなく立上ると庫裡へ走つて行つて、間も無く茶器を揃へた盆を自分で持ち運んで来た。長い胴を折り曲げるやうな危つかしい調子で房一の前に置くと、

    練吉は、癖だと見えて、折角きちんとかぶつて出たカンカン帽をいきなり指で突き上げて阿弥陀あみだにすると、いかにもだらりとした様子で歩き出した。それは、さつき別人の観があつた、てきぱきした、俊敏な医者らしい練吉から、もとの彼に逆もどりした風であつた。

    が、それは徳次であつた。

    江戸時代ばかりでなく、明治時代になって東海道線の汽車が開通するようになっても、先まず箱根まで行くには国府津こうづで汽車に別れる。それから乗合いのガタ馬車にゆられて、小田原を経て湯本に着く。そこで、湯本泊りならば格別、更に山の上へ登ろうとすれば、人力車か山駕籠やまかごに乗るのほかはない。小田原電鉄が出来て、その不便がやや救われたが、それとても国府津、湯本間だけの交通に止まって、湯本以上の登山電車が開通するようになったのは大正のなかば頃からである。そんなわけであるから、一泊でもかなりに気忙きぜわしい。いわんや日帰りに於てをやである。

    と、房一は急いで頼んだ。加藤巡査は一瞬、不安な面持をした。が、房一の態度が決然としていたのと、急策としてはそれより他にないことも明かだつたから、直ちに承諾を与へた。

    「あれですかね、やつぱり自分で歩かなくちやいけませんかね」

    房一は、これは煩うるさい相手だなと思ひながら、わざとゆつくり構へていた。実は、さつき裏口から二人を見かけた時に、すでにぴんと感じていた。こんな風体の連中は河原町には他にない。それに、今しがた川岸で話に出たばかりの所だつたので、房一にはよけい強く頭に来た。

    「なんですか、御挨拶まはりですかね、それはどうも御苦労さまですなあ。――まあ、お上り下さい」

    その時、彼等は近くに坐つている房一に気づいた。話に出ている鍵屋の分家とは、まさに房一の借りている家のことだつたし、その所有者は神原喜作にちがひなかつたから。

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