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銹さびのある低い声で入つて来る客に叮重に挨拶しながら、その度に手を袴の下から出して奥の間へ誘つた。この「さやうで御座ります」といふのが直造の口癖だつた。しかも、その言葉を口にするごとに、彼の痩身なだが骨太な身体は慇懃いんぎんに前こゞみになつた。それはこの身動きと言葉とがぴつたりとくつつき、いやそれ以上に全く同一物と化したやうな趣があつた。
一方、正文はこの大人と子供と混まざり合つたやうな、身体だけは大振りな、女にかけては強したゝかな息子を前にして途方に暮れた。彼はあれほど自分の思ひ通りに仕立てようとしたにかゝはらず、思ひもよらぬ息子として現れた練吉に対し、今遅蒔おそまきながらその心底に立つて理解してやらうと試みていた。だが、何といふ支離支滅な、性懲しようこりもないふしだらだつたらう、どういふ風に彼の云ひ分に耳を傾け、どんな風に彼を認めてやればいゝのだらう――そこには何一つ彼の型にはまつた見方にあてはまるものはなかつた。ぐらぐらした、手に負へない、いたづらに父親である彼の胸を暗くし、息をつかせない思ひをさせる、愚かな、口の達者な、だが何となく見捨て切れないもののある、それは彼自身の息子にちがひないが、あれほど入念に手塩にかけたつもりでいながら、彼の手などは一つと云へども加つてはいないといふ気のする、得体のしれないものだつた。
済んでもまだ、彼の顔は何かしら当惑した、おつかなびつくりといつた表情を浮かべていた。それは何だか、嫌な仕事をさせられた子供のよくやるやうな表情だつた。突然、盛子は了解した。そして、笑ひ出した。――このいかつい、頑丈な、むくむくした房一の中には、こんなに気の弱い、やさしい、何だか可愛げなものがあるのだつた。それは全く、彼には不似合なものだつた。それだけに、可笑をかしみのある、又親しい――。
「ほらね、かういふ形のと、又別にかういふのがあるだらう」
云ふなり又思ひ出したやうに玄関へ上つて行つた。
「ほう、往診かね」
今、房一の顔に現れているのはさういふ怒気だつた。ただ、それは盛子に向けられているのでなしに、房一の内部に立ちはだかり、自ら押へつけしている、それから来る圧迫感だつた。――
「まあ、それあ――」
かうして、予定の時刻を大分遅れて小学校の校庭に辿りついた時には、腹は空くし全く放々の態であつた。が、遅れたのはその一隊ばかりでなく、所々で踊りを見せながら山車だしを引つ張つて来る組も、他にも大分遅れる組があつた。で、彼等は気をとりなほして万歳を三唱し、直ぐに思ひ思ひの所に散らばつて焚出たきだしの握飯をほゝばつた。もうこゝは町内であるから、たくさんの見物人が集つて来ていたが、午前の一歩きですつかりへこたれ、埃で顔が黒くなり、疲れた彼等は、そのおかげでもう照臭さも何もなかつた。
「それで、何かね。ドイツ兵は徒歩てくで通るんかね」
二人は夜ふけの戸外に出て下手の渡船場の方へ路をとつた。月はなかつたが空は一面の星で外は案外に明かつた。房一は先に立つて河沿ひの土堤の上を歩いていた。夏の間に生ひ茂つた雑草が路が見えない位になつて、その葉先がうるさく彼等の足をこすつた。房一の手にしている自転車用の電燈の明りは雑草の頭を、時には横に外れて、うす暗い中にほの白く浮き上つて見える広い河原の上にたよりない光を投げた。房一は時々うしろをふりかへつて見た。老父は尻をはしよつて、黙つてうつむき加減に歩いていた。それは恐く小さい、又何となくかつちりしたものだつた。房一はあの日に焼けた真黒い膝小僧までがはつきり見えたやうな気がした。そして、そんなに小さい者としての感覚がありながら、同時に房一は子供の時分父親につれられてこんな夜路を歩いていたときの、父親が非常に巨おほきな身体をしていて、力もこの周囲をとりまいている夜の深い脅おびやかすやうな印象をふせぐには十分だと云ふあの子供つぽい切ないやうな信頼の感じ、それをまざまざと思ひ出していた。何かしら温い、何かしら幸福な感覚が深くまつすぐに房一の胸を走つた。この感覚は渡船場で針金についている綱をひつぱつて船をたぐり寄せたときにも、老父が船の後部に腰を下して、房一が慣れた手つきで綱をたぐりながら、黒い温かさうな水の上を渡つているときにも、房一の胸の中につゞいていた。実家について、老父や起き出た家の者に二言三言挨拶して、やがて房一一人でもとの路をかへつて来る頃、彼は又日頃の心の状態にかへつていた。そして、「医師高間房一」が彼の中で目覚めて来た。渡船場の黒い温かさうな水の色はさつきと同じやうに彼の眼の前で光つていた。たぐりよせる綱のさやさやと引擦り会ふ音はさつきと同じやうにあつた。彼はそれらに注意深く耳を傾け、眺めた。瀬の音が河下の方から鈍く匍はひ上つて来た。それにつれてかすかな震動があたりに響いているやうに思はれた。何を考へるともなく深い沈思の蔭で蔽はれていた彼の浅黒い顔に突然或る明い微笑が現はれた。彼はしつかりと足をふみしめるやうにして、土堤の上の路を、雑草の中を帰つて行つた。
盛子は笑ひながら顔を紅らめた。
「へえ、いえ」
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