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職業柄人見知りなんかはしていられないし、又さういふことにかけては密ひそかに自信を持つていた房一も、少したぢたぢとなつた。そのはずみに、房一は路々考へて来た挨拶のきつかけを度忘れてしまつたほどである。
房一は目を輝かせて云つた。
「いるかね。いたら、高間さんが御挨拶に見えたからと――」
「ふむ、もうよろしい、よろしい」
これは房一が河原町に帰つて以来、はじめて感じたものだつた。すでに、路上から徳次の姿を見つけたとき、房一はこの男をすつかり忘れていたのを後悔していた。
それは初めて口に出す言葉だつた。
「せんせいですか」
「金色夜叉」はやはり小説であると、わたしは思った。
「よく来てくれましたな。けふはゆつくりしてもかまはんのでせう。あんたは碁を打ちますか。――さうですか、御存知ないですか。それはちよつと。まア、しかし、こんなものは覚えん方がいゝかもしれませんなあ」
「いや、どうも。恐縮です」
「うん?」
それは盛子だつた。きりつとした割烹着の姿は彼女の伸びやかな身体の特長をよく現はしていた。
彼の妻の茂子は昨日実家へ帰つたばかりで、この家にはいないのである。
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