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「おーい。渡つてもいゝかね」
房一はさつきから自然と聞いてはいたが、事は初耳だつた。
と、小谷はひとり言にしては大きい声で云つた。が、代りがないので又水の中へ放つた。
「御病人はどちらで?」
道平は納得したやうにうなづいたが、又ゆつくり身体を坐りなほすのと一緒に、
今その文太郎が県会の視察旅行に出ていたので、法事の主人役は直造に廻つたのである。だが、文太郎はかういふ町内づき合をあまり好んでいなかつたから、たとへ在宅だつたにしても、直造は主人役を買つて出たであらう。
「おい、ビールは冷やしてあるかい」
「じゃそのお松まつと言う女はどうしたんです?」
その時、道平がのつこりと診察室に上つて来た。やはり尻はしよりの下から真黒い両脚を円出まるだしにしたまゝで。房一が考へこんでいるのを見ると邪魔をしてはいけないとでも思つたらしく、そのまゝゆつくり診察室の中を見まはして、何か口のあたりをもぐもぐさせた。それから、医療器具棚に近づくと、そのうるんだはつきりした眼で熱心に中をのぞきこんだ。そして又、口のあたりをもぐもぐさせた。それはこんな風に云つているやうであつた。
彼は男の顔を蔽つている手拭をとりのけながら云つた。
何のためか、どういふつもりか、練吉は矢庭に房一の肩をぐんと押した。そして、自分は逸早く溝をとび越して、土手を駆け上つた。下の方では、黒い一杯の人だかりの間からは何やら鋭い言葉を叫ぶ者がいた。練吉が駆け上つた後から、房一も本能的に溝をとび越えた。事態は緊迫していた。練吉が何をしでかすか知れない、といふ予感が閃いたので。
印袢纏の背の高い男がその時、半シャツの男に向つて目くばせをした。
「早く早くつたつて、もうお支度はちやんとできてますわ。あなたが遅くかへつて来といて――」
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