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    今度は、徳次も完全にびつくりしてしまつた。彼のきよろりとした眼には、どこか少し先きで火事があると聞いた時のやうに、何だか落ちつかない、興昧ありげな色が浮んでいた。

    一座はしづまり返つていた。何か緊迫した気配があつた。――とにかく、それは予定の中には入つていなかつた。こんな風に突然誰かが立上り、荒々しい声を張り上げ、何を云ひ出すか判らないのにぢつと膝をついて聞いていなければならぬとは!

    「おーい。渡つてもいゝかね」

    「ねえ、高間さん。まあ、こつちへお寄んなさい」

    「ふん」

    「おれと息子とはちがふ。息子は自分の力でこんな風に立派になつた。おれはうれしくて仕方がないが、まあおれは自分の坐り慣れたところにこのまゝ坐つている方が気楽だ。医者の父親なんてものより、元のまゝの老百姓で結構だ」

    傍にいた赭あから顔の老人が低い声で云つた。

    「大きに。ありがたうござんす。よろしう頼んます」

    「ですが、一体財産譲渡つて云ふのはいつのことなんです、大分前ぢやないですか」

    「や、ありがたう」

    「畜生、弱い奴だ」と、根津は笑った。

    かうして、やつとこさ初秋の爽かさがやつて来た。が又、風だ。生温い、暑さのぶり返しを思はせる蒸し蒸しした空気、雨、それから青空、微風、快い乾いた空気、――こんな風にためらひ、一寸後もどりをし、又急ぎ足で駆け、季節は人々に型通りの見込をさせまいとするかのやうに見える、がその足どりの中には何か大まかな順調さが、あの自然といふものの単純な変化が歴然と現れて来る。人間が見込を外はづされてぽかんとしている間に、いつしか十月に入り、十月も終りに近くなり、あの快い乾いた、いくらか冷えを感じさせる明あかるい空気が、毎年のことでありながらかつて一度もなかつたと思はせるほど、又一月や二月ではなく、永久につゞくと思はれるほど、来る日も来る日もつゞいていた。

    「これを御大典のお祝ひ日に着るんですつて」

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