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「高間さんと云ふと、――ふむ、そんなら、わしとこの者もんが度々御厄介になつとる先生ですかな」
と、房一は帽子を手にやつた。
が、材木置場の混乱にもかゝはらず、そこから一段と小高くなつている出張所の構内では、やはり高張提灯がかゝげられ、焚火が燃え、人が立つて歩いていたが、をかしい位にひつそりし、柵のところにかたまつた人影は下方の混乱を黙つて見物しているとしか見えなかつた。
この廃坑は旧幕時代の末頃まではまだ採掘されていて、これあるがために河原町は当時幕府直轄の天領となつていた。そして、上流にある城下町の藩主が参勤の途上この河を利用して下る時、天領との間に何か紛争の糸口のつくのを憚はゞかつて、河原町の傍を通る間は舟に幕をはり、乗組の者は傍見をして下つたと云ふ。それほどであつたから、この領内の民は他領との縁組を嫌ひ、他領から移り住む者を許さなかつたし、狩猟とか交通とかその他様々な点で非常な横暴と特権とを許されていたものだつた。
その浴場は非常に広くて真中で二つに仕切られていた。一つは村の共同湯に、一つは旅館の客にあててあった。私がそのどちらかにはいっていると、きまってもう一つの方の湯に何かが来ている気がするのである。村の方の湯にはいっているときには、きまって客の湯の方に男女のぽそぽそ話しをする声がきこえる。私はその声のもとを知っていた。それは浴場についている水口で、絶えず清水がほとばしり出ているのである。また男女という想像の由よって来るところもわかっていた。それは溪の上にだるま茶屋があって、そこの女が客と夜更けて湯へやって来ることがありうべきことだったのである。そういうことがわかっていながらやはり変に気になるのである。男女の話声が水口の水の音だとわかっていながら、不可抗的に実体をまとい出す。その実体がまた変に幽霊のような性質のものに思えて来る。いよいよそうなって来ると私はどうでも一度隣の湯を覗のぞいて見てそれを確めないではいられなくなる。それで私はほんとうにそんな人達が来ているときには自分の顔が変な顔をしていないようにその用意をしながら、とりあいの窓のところまで行ってその硝子ガラス戸を開けて見るのである。しかし案の定なんにもいない。
房一は微笑した。――つい半月ほど前、房一には初めてだつたが、郡の医師会が隣町であつたので、練吉と二人づれで出席した。その晩の宴会で、練吉は酒癖の悪い所を見せた。或る医者と練吉との間には、房一には判らない感情的ないきさつがあるらしく、飲んでいるうちに練吉は突然口論をはじめ、つかみ合ひになりかゝつた。房一は練吉の留役だつた。そして、まだしきりに興奮して、「やい」とか「山梨の野郎、出て来い」と思ひ出したやうに怒鳴る練吉の腕をしつかりと抱きこんで旅館まで連れかへり、水をほしがつたり又その上にのみたがつたりする練吉を押へつけるやうにして寝かしたのだつた。
彼はもう何度も家の内外を行つたり来たりして、「高間医院」のでき上り工合を綿密に眺め歩いていた。新開業の胸のふくらむやうな思ひが、とりとめもない快感が次々と起きて片時もぢつとして居れない風だつた。
「馬子まごにも衣裳つて云ふから――」と云つたほどである。
房一は持前の人慣れた愛想のいゝ微笑をうかべていた。それは水面にできた波紋がゆるく輪をひろげるやうに、彼の厚い醜い唇からはじまつてしだいに、顔全体をつゝみ、つひに容貌の醜さを消してしまふものであつた。
根津は自分の座敷から脇差を持ち出して再び便所へ行った。戸の板越しに突き透してやろうと思ったのである。彼は片手に脇差をぬき持って、片手で戸を引きあけると、第一の戸も第二の戸も仔細なしにするりと開いた。
何かしら、すつ飛んでしまつた。白い光るものも、鬼倉の隈取くまどりのやうに荒い皺の走つた顔も、それからあの、もやもやした怒りも。そして、ぼんやりとして次のやうな話がとり交はされるのを聞いていた。
八月も末だつた。十日あまり思ひがけない涼しさがつゞいたので、このまゝ九月に入るのかと思はれたが、暑さは又ぶり返して、がまんがならないほどだつた。
「なあ、ジョン!」
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