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    築堤へ登る段の所で、長い竿を持ち扱ひにくがつて立停つた房一の背後から、盛子はふいに呼んだ。

    「すまんでしたな、長話をして」

    盛子の妊娠を耳にしたのはまだ病気前のことであつた。だが、間もなく寝こんでしまつたので、ぢかにお祝ひを云ふ機会がなかつたのである。盛子が見舞ひに来たとき、彼はそれを口に出さうとして焦あせつた。病気以来、思ふことが口に出せないで、彼は別人のやうに気短かに、癇癪持になつていた。これも亦驚くべき変化だつた。以前の稍頓狂な感じのした大きな眼と、寛厚さを現す眼尻に刻まれた特長のある深い皺とは、その外見上の旧態を保つてはいたものの、そこには何だか平たくなつて、乾いて、苛立ち易い頑固な老人がちやうど水面下の石だの杭だのを上からのぞきこんだ時のやうに、一種沈んだ退屈さの中に横はつていた。そして、彼が物を云はうとして口をあくあくさせるところは、その自由のきかない退屈さの表面に浮び出ようとしているかのやうな印象を与へた。彼ははじめから房一を、自分の息子ではあるが、息子以上の者として扱つていたので、盛子に対しても多少他人行儀な遠慮深さを持つていた。しかし、それをすぐ目の前にしながらあれほど気にかけていたお祝ひを口にできないことは、口にしたつもりでも相手に通じないことは、病気のために今や一種の頑固に変つた律気さが許さなかつた。彼は殆ど癇癪を破裂しさうになり、盛子がびつくりしたのを目にとめると、やつとこさあの遠慮深さを思ひ出し、口にするのをあきらめたのだつた。それ以来、彼は今日あることを、盛子に自分の口からお祝ひを述べるといふことを丹念に考へていたのである。そればかりではない、息子とは云へ、房一には病中あんなに世話になつたし、セルのお礼を云はなくてはならないし、それから、それから――と、あれも云ひこれも云ひするために、河場からこゝまで歩いて来るといふことは、彼にとつてはまさに大事業だつたのである。おまけに途中には渡船場さへあつた!今や、大願成就である。少からぬ喜悦のために、彼の半分ひきつゝた顔はゆるみ、そこに、寛厚で大まかだつた道平老人が何ヶ月振りかでふたゝび生れ出たやうな観があつた。

    「この人はちっと眠むがってるでな……」

    だが、さう云へば、一歩いちぶ非の打ちやうのない正文に練吉のやうな息子ができたこともふしぎにちがひない。事実、当人の練吉さへ、自嘲めいて時々さう口にするのであつた。

    「いや」と、喜作は相変らずきつぱりと、煩うるさがりもせず答へた。

    もともと口下手ではあつたが、まだ舌がもつれる風で、一口ごとに息をついて云つた。

    「さあ、知らん」

    近づきながら、何となくほの紅くなつて、中声で叫んだ。そして、房一の傍にいる小谷と徳次を認め、小腰をかゞめた。括くゝられてふくらんだ袖口からは気持のいゝ白い腕が露はれていた。

    さう云ふと、男は入口に待つていた印袢纏の背の高い男とつれ立つて、高間医院を出て行つた。

    「いや、あの晩の、ほんの三二日前です」

    房一は彼の三男であつた。いつも泥と垢で真黒な顔や手足をしていたが、薄汚い皮膚の下には温い血の色が漲つていて時々水いたづら、それは河や溝川で小鮒を追ひかけることであつたが、その後では両手首から先だけの垢が自然にとれて、小さく頑固な指々が紅く燃えているやうであつた。むつちりと肉のついた肩、粗暴でいながら間断なく閃めいている眼、小柄な身体をゆすぶり立てて歩いたが、彼は対岸の河原町のしつけのよい子供達を憎んでいた。町の子供で、彼よりも歳上の子供が一度よつてたかつて彼を打ちのめしたことがある。物蔭からわつと出られ、見るまにまはりを囲こまれた瞬間、彼は鋭い獣のやうな身構をした。皆は一時ひるんだが、彼の方でも逃げ場はなかつた。一同が迫つて、次にどつと襲ひかゝられると、房一はさつと地上に身を伏して両手で頭を抱へ足をちゞめ、亀の子のやうに円くなつた。埃にまみれ、擦傷や打たれて青く腫れた横頬のまゝ、彼は家へ帰つたが一口もそれについて語らなかつた、それ以後彼の粗暴さは以前よりももつと本能的な動物的な狡猾さを具へて来た。彼は自分をふくろ叩きにした者の顔を一つ一つ覚えていた。彼はその一人一人に復讐をはじめた。そのやり方はかうだ――彼は殆ど一二町手前から敵の顔を見わける。そして、何事もなかつたやうな又何事もないやうな顔で、その汚い垢だらけの顔面から小さい眼だけをきらつかせ傍見わきみをして近づいて行く。相手が彼に気づき警戒する様子を見せると、彼はますます鈍重な呆ぼうとした面つきになる。一二歩の間に近づいて、相手が彼を見て、彼に何の敵意もないと見てとると、急に嘲弄したり、又は機嫌買ひの微笑をする。それでもきよとんとして相手を眺める。しかし、その瞬間彼は一心に胸を張りつめて相手の隙を狙つているのだ。隙がみつかるや否や、彼は突然躍り上るやうにして相手にとびかゝる。そして必らず上背のある相手の顎を狙ふ。むつちりした弾力のある真黒な拳固を突きやつて、その次の瞬間にはもう一二間向ふの方へ走つて逃げている。走りながら一撃を喰はしているのだし、走力が拳固に力を加へているわけだつた。そして相手があつと声を上げて立ち悚すくむか、あるひは身構をしたときには房一はもうはるか彼方を点のやうに小さく一散に走つているのだつた。

    が、ひどく不機嫌になつた時にはこの円味が消えてしまひ、あのどぎつい部分々々がばらばらに突出し一層強くなるやうに感じられる瞬間がある。それは理由なく盛子を恐怖させるものであつた。

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