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    「はい、若先生に代りに行つてもらへとおつしやいました」

    彼の現実的に鋭い頭が働きをとめたわけではなかつた。又、あの身うちから溢れるやうに頭を持上げて来る野気を失つたわけでもない。それらはたゞ、急がば廻れといふ風にどつかりと彼の中に腰を下し、緩漫な暢のびやかな四囲の空気と調子を合せることを覚えこんだのである。もともと彼の野心といふものには格別はつきりした目標があつたのではない。漠然とした、無意識のうちに魂の孕はらむ夢といつた風なものだつた。が、今やその魂はどうにか方向を見つけ、その形づくらうと欲しているものを予感し、穏かに、着実になつた、といふやうに見えた。

    「さうか、――そんなに何もかも、こつちでして貰つてもえゝか」

    かまわないから開けてみろというので、男二、三人が協力して無理に第一の戸をこじ開けると、内には誰もいなかった。第二の戸をあけた結果も同様であった。その騒ぎを聞きつけて、他の客もあつまって来た。宿の者も出て来た。

    彼は今泉からドイツ兵の捕虜と聞いたとき、かつて若い単純な頭にはげしい印象を灼やきつけられた、ロシア兵達の驚くべき腕の長さ、のろい大まかな身振り、何とも解しがたい瞬時に大きく開かれたり又縮まつたりする碧い眼や唇の動き、――それらは今徳次の目の前に突然鮮明な記憶をよび起したのである。

    「さうだ。大したことはない」

    さう声に出してみた。そして犬の方をふりかへつた。犬は彼の方を信頼にみちた眼で見上げ、しなやかな尾を振つた。

    「や、これは。高間さんですか。お久しぶりで」――「お忙しいですか」

    二人は夜ふけの戸外に出て下手の渡船場の方へ路をとつた。月はなかつたが空は一面の星で外は案外に明かつた。房一は先に立つて河沿ひの土堤の上を歩いていた。夏の間に生ひ茂つた雑草が路が見えない位になつて、その葉先がうるさく彼等の足をこすつた。房一の手にしている自転車用の電燈の明りは雑草の頭を、時には横に外れて、うす暗い中にほの白く浮き上つて見える広い河原の上にたよりない光を投げた。房一は時々うしろをふりかへつて見た。老父は尻をはしよつて、黙つてうつむき加減に歩いていた。それは恐く小さい、又何となくかつちりしたものだつた。房一はあの日に焼けた真黒い膝小僧までがはつきり見えたやうな気がした。そして、そんなに小さい者としての感覚がありながら、同時に房一は子供の時分父親につれられてこんな夜路を歩いていたときの、父親が非常に巨おほきな身体をしていて、力もこの周囲をとりまいている夜の深い脅おびやかすやうな印象をふせぐには十分だと云ふあの子供つぽい切ないやうな信頼の感じ、それをまざまざと思ひ出していた。何かしら温い、何かしら幸福な感覚が深くまつすぐに房一の胸を走つた。この感覚は渡船場で針金についている綱をひつぱつて船をたぐり寄せたときにも、老父が船の後部に腰を下して、房一が慣れた手つきで綱をたぐりながら、黒い温かさうな水の上を渡つているときにも、房一の胸の中につゞいていた。実家について、老父や起き出た家の者に二言三言挨拶して、やがて房一一人でもとの路をかへつて来る頃、彼は又日頃の心の状態にかへつていた。そして、「医師高間房一」が彼の中で目覚めて来た。渡船場の黒い温かさうな水の色はさつきと同じやうに彼の眼の前で光つていた。たぐりよせる綱のさやさやと引擦り会ふ音はさつきと同じやうにあつた。彼はそれらに注意深く耳を傾け、眺めた。瀬の音が河下の方から鈍く匍はひ上つて来た。それにつれてかすかな震動があたりに響いているやうに思はれた。何を考へるともなく深い沈思の蔭で蔽はれていた彼の浅黒い顔に突然或る明い微笑が現はれた。彼はしつかりと足をふみしめるやうにして、土堤の上の路を、雑草の中を帰つて行つた。

    「あ、さうでしたな。一つ診ていたゞきませう」

    房一は近い往診の帰りに河の石畳みの土手をつたつて歩いていると、広い河原を前にし土手沿ひの小高い畑地の端に立つて、特長のあるごつごつした頭骨を露あらはにし、両手を帯の前にはさんだまゝ、殆ど反そり身に立つたまゝあたりを眺めている男を見た。

    練吉は卒業するとすぐ医専附属の病院に勤務した。今度は正文の指金で、釣合のとれた家から正式に嫁を迎へてやつた。男の子が生れたし、これで落ちつくかと思はれた。が、その三年間にも練吉の女狂ひはやまなかつた。おしまひには遊び人と内縁関係にある、子供まである酒場の女にひつかゝつた。しかも、その女を得たいために、その女と前夫とを別れさすための手切金まで出すといふ始末だつた。その間のごたごたでごく普通のお嬢さん育ちだつた嫁はたまりかねて出て行つた。その後で女とも別れた。出て行つた嫁の実家との交渉が永びいた。すると、その最中に又もや隣家の寡婦と関係ができたのが、先方に知れて、たうとう破談になつた。こんな風に別れる度に、手切金だの慰藉料だのいふ名目で、結局渋しぶりながら正文の手もとから金が出た。

    房一は話を変へた。

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