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    たしかに、一年余りといふ年月は経過した。それは暦の上でもはつきり現れているし、房一の身辺でも紛まがふことなく通過した。たしかにいろんなことが、予期したことも予期しないことも起つた。それにもかゝはらず、そこには何か了解しがたいものがあり、一口に一年といつてしまふにはあまりにはみ出たものがうようよして感じられるのであつた。これにくらべれば、彼が開業のはじめに空想したさまざまのことは、あの医師高間房一としてこの町にしつかりと根を生やすといふことは、どんなに小さくどんなに単純なものだつたらう。いや、彼の空想は着々として実現していた。何故なら、どこにも医師高間房一としての失敗は認められなかつたから。それでもなほ、彼の前もつて考へたことは、起つたことにくらべればとるにも足りないものだつた、といふ感じを抱かざるを得なかつた。そこには何か大きなものが、大きくつて親しい、落ちついたものが現れているやうに思はれた。

    閑静で温泉もあるという家は売家だから住めない。貸家の方はたいがい山の上の温泉のない家で、ぜひ住んでくれないかと云ってきた空別荘も、景勝閑静な山荘であったが、温泉がなかった。

    「連れっ子をして行ったです。その子供がまたチブスになって、……」

    船体を洗ひ終つて、これから雑具にかゝらうとしたときだつた。彼はふと対岸に目をやつた。物音がしたわけでもなければ、気配を感じたのでもない。しかるに、そこの路の曲り角には、まるで符合したやうにその時きらきら光る真新しい自転車に乗つた男が現れたところだつた。

    もう一度軽く頭を下げながら、それまで馬を眺めていた房一はふりかへつて相沢を一瞥した。彼は何故だか判らぬながらに、相沢の話振りから一種不快な響きを聞き分けていた。

    万事の設備不完全なるは、一々数え立てるまでもないが、肝腎の風呂場とても今日のようなタイル張りや人造石の建築は見られない。どこの風呂場も板張りである。普通の銭湯とちがって温泉であるから、板の間がとかくにぬらぬらする。近来は千人風呂とかプールとか唱えて、競って浴槽を大きく作る傾きがあるが、むかしの浴槽はみな狭い。畢竟ひっきょう、浴客の少かったためでもあろうが、どこの浴槽も比較的に狭いので、多人数がこみ合った場合には頗る窮屈であった。

    と云ふ、思ひがけないほどはつきりした声で差し出した。そして、又淡泊なさつさとした足どりで台所の方へ去つた。

    その時やつと、男は少しうなづいた。そして背中に負はれて出て行つた。

    「あいつももう仕かたがないのですよ。『青ペン』通いばかりしているのですから。」

    思はず正文は笑ひかけた。それを隠すやうに小首をかたむけてわきを向くと、又房一の話を傾聴する恰好になつた。そして、一度起きなほつた背はだんだんと柔かく前こゞみになつた。

    「わたくし儀ぎ、金がなければお前様まえさまとも夫婦になれず、お前様の腹の子の始末しまつも出来ず、うき世がいやになり候間そうろうあいだ、死んでしまいます。わたくしの死がいは「た」の字病院へ送り、(向うからとりに来てもらってもよろしく御座ござ候。)このけい約書とひきかえに二百円おもらい下され度たく、その金で「あ」の字の旦那だんな〔これはわたしの宿の主人です。〕のお金を使いこんだだけはまどう〔償つぐのう?〕ように頼み入り候。「あ」の字の旦那にはまことに、まことに面目めんぼくありません。のこりの金はみなお前様のものにして下され。一人旅うき世をあとに半之丞。〔これは辞世じせいでしょう。〕おまつどの。」

    房一は叫んだ。犬は房一の顔を見上げ、二三間走り、後がへりをし、それから急に葉の落ちた灌木の中にとびこんで行つた。がさがさやつて、ずつと先の路に出た。きよとんとし、時々匂ひを嗅いだ。

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