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    鍵屋へ招かれた時から房一の頭を占めていた考へは、その席で恐らく河原町の人達が彼をどんな風に見ているかがはつきり判るだらうといふことだつた。かういふ集りでは皆が皆自分の据ゑられる席の上下を可笑しい位に気にする習慣を房一はよく知り抜いていた。

    「何だらう、山師を煽おだてて又一儲けしようてんだらう」

    その苦痛を天城先生に訴えたら、洗眼器をかして下さった。入浴しながら、これを用いて、冷水で目を洗う。これを三分ぐらいやって、目をとじて、三十分、四十分、湯につかって、茫々去来するままにまかせておくのである。眼の疲れは急速に去った。目に水をそそいでから、ヌル湯にながく、ながく、ひたるということは、目の疲れとは別に、頭の疲れを払うためにもキキメがあるようだ。また入浴前に歯をみがいておくことも、いくらか入浴の頭に及ぼす効果を助けるようだ。

    「へーえ」

    「何者かつて云ふが、そもそもこゝで半鐘をたたいたから集つて来たんだぜ」

    あのぴかぴか鋭い光を放つメスを危険もなく取扱ひ、聴診器をあてがひ、胸だの腹だのを指でたゝき、雲をつかむやうな厄介な重苦しい病気といふものを探りあて、ピンセットでつまみ出し、ふしぎな光沢のある粉末を与へ、すると激しい痛苦がたちまち遠のき、一日か二日でぴんぴんしてしまふ、その玄妙と神秘にみちた医者といふものの働き、――徳次はかつてそんなことを考へたことはなかつた。今までの彼にとつては、医者は呼べば来てくれる者、病気を癒してくれる者、単にそれだけだつた。それ以上のことが何で必要があつたらう。ところが今や、その縁のない漠然としていた「お医者」が突然彼の身近かに姿を現したのだ。それは何となく不思議なことだつた。同時に親しいものだつた。これまで彼が立入ることもできないと思つていたもの、理解しがたいものとしていた物が、今目の前に手で触ることもでき、その縁に手をかけて中をのぞいてみることもできさうだつた。この身びいきからして突然ひき起された克明な興味を以て、彼は房一を、その中に在る医者といふものを熱心に眺めた。

    房一には連れが二人あつた。

    房一はその玄関土間に足を踏み入れて、

    彼は道平の息子で、且つ医者である。これほど病人にとつても周囲の者にとつても安心できることはなかつた。彼等は医者としても房一を信頼し切つていた。若し仮りに、房一が医者としての手落ちを来し、そのために死を招いたとしても、恐らく病人は安んじて瞑目したであらう。なにしろ、息子の手にかゝつていることだつた、これ以上の幸福があらうか――房一が診察している間ぢゆう、ぢつと身体を任かせ切りにしている道平の半開きの眼が、まだ口が利けないので、房一が何か云ふたびにうなづいて見せるその弱々しい、うるんだ眼が、さう云つていた。

    「徳さんが、――今、そこに、おかみさんが来てるんですわ」

    あの紙衣裳を着た神主達は今どこを歩いているのだらう。どこかの空地で、ばさばさ音をたてる袖口をたくし上げて、握飯をほゝばり、お茶を啜つてでもいるだらうか。きまりは、町の端々から通りといふ通りは、どんなところでも歩かねばならないのだ。昨日まで迂散うさん臭い顔で紙衣裳を眺め、触つてみようともしなかつた房一は、いよいよ着こむときになると案外な度胸を示した。ボール紙の冠をかぶり、紐を顎の下できゆつと結ぶと、肉づきのいゝ顔を一寸ひきしめて、どうだ!といふ風に盛子に擽つたさうな目をくれた。それはとにかく珍妙ないでたちにちがひなかつた。が、しかし、たとへ紙にもせよ、一定の式服といふものの持つ効果はたしかにあつた。それは本物のそれのやうではなかつたにしても、とにかく何かしら堂々としてはいた!そして速製の「威儀を正した」顔さへ自然と誘ひ出しさうであつた。

    「さうかよ。おれは又、河原町を通るんだとばつかり思つた」

    それがふしぎに思はれた。

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