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    房一が入つて来るのを見たとき、練吉の顔には意外だといふ表情が浮かんだ。彼は房一の眼を迎へようとして一層高く頭を持上げたが、房一は気づかなかつたので、やがて、練吉はわざわざ座を立つて近づいて来た。

    練吉はさういふ今泉の足もとを見、更にじろりと皺一つよらない衣裳を見上げた。何か疳にさはつたやうな色が動いた。そして、一言できゆつと相手をへこまさうとする時のやうに、神経的に口を曲げ、今にも云ひ出さうとした時、少し離れたところから手招きしている房一と小谷とに気づいて、そのままそつちへ行つてしまつた。

    「ほう、往診かね」

    かうして、びつくりするほど冴えた、明い日がやつて来た。いや、それは昨日も一昨日もその前も、かういふ日がつゞいていた。だのに、やはり、今日又新しく特別にとび切りにやつて来たとその度に思はせるほどの快い日だつた。どこもかしこも透き通るやうで、はつきりし、乾いた空気がふはりと頬のあたりに触れ、どこからかつんとする気持のいゝ山の匂がやつて来た。

    「つい今日まで挨拶にも行かずじまひになつてね、どうも済まなかつた」

    腹に物がつめこまれると、さつきはあんなにへたばつてしまつた神主の一隊もどうにか元気がついたやうであつた。これからいよいよ町通りである。自分の家の前を、妻子や使用人達がずらりと見物している中を、しやちこ張つて、堂々と歩かねばならないのである。で、大半はいつのまにか草履や下駄にはきかへていたものの、まだあの木箱をひきずるがらがらいふ音をたてて、紅い色の滲んだ、紙衣の神官達は、笏を前に構へ、気を張つて真正面を向いたまゝ繰り出して来た。俳優で云へば、まさに花道の出にさしかかつて来たところである。

    が、それは徳次であつた。

    今度帰郷してから庄谷に会ふのは今日が始めてだが、房一のことは庄谷も知り抜いている筈なので、彼の方から祝ひの言葉の一つ位はかけてくれさうな気がしていたのに、房一はあてが外れたやうに感じて、少なからず手持無沙汰だつた。だが、庄谷は知らないどころではなかつた。たゞ彼には房一が医者になつたことが何となく気に喰はないのである。庄谷の眼からすれば、以前からさう手軽るに親類顔をしてもらひたくないと思つていた家の薄汚い息子でしかない房一が、今突然医者として現はれて来たつて、それを認める気にはなれなかつた。この善良で小柄な、小柄なくせに横柄な男は、頭のてつぺんから足のさきまで河原町の者だつた。彼はこの町に生れて、家業である雑貨店を継いだ。それからもう何十年、店の入口の障子は硝子戸に変り、商品もランプの代りに電球を置くやうになつた。だが、いつたいそれがどういふ変化だと云ふのだらう。何もかも大事なことは変つてはいなかつた。もう十年来どこの家でも戸数割の納め高は同じであつた。彼の家の前を通る大抵の人は彼より少い戸数割を納めていた。だから、彼はそこで会ふ大抵の人に、「あン」と云つて一寸頭を動かせばよかつた。無遠慮にぢろぢろ通りがかりの人を眺める癖を改めなくともよかつた。それは彼のこれまでの生涯をつゞいた。これからだつて同じことだとしか思はれない。何もかもちやんと決まつていて、疑ふこともなければ、案ずることもない。だから、それに当てはまらないことが目の前に現れても、それは初めから無いに等しい。彼を支へている考へがあるとすれば、ざつとかういふ考へだつた。

    見たことのない顔だつた。患者なら玄関から来る筈だ。

    それまで房一は、加藤巡査を通じて出張所と話をつけ、何らかの形で収拾させたいと考へていたのである。が、彼の素速い判断力は今はその余裕もないことを見抜いた。

    まさしく、それは房一の癖だつた。何か用がとぎれた時、この廻転椅子に腰を下すや否や、肥満して幅の広い体躯の房一には窮屈さうに見えたが、案外しつくりと云ふに云はれぬ掛心持かけごこちがあると見えて、そのまゝ彼は今云つたやうな姿勢とぼんやりした考へに落ちこむのである。それは何かはまりのいゝところがあるらしかつた。真新しかつた時の天鵞絨びろうどの輝きこそなくなつたが、それはまだ円々としたふくらみを持ち、毛並みの上にかすかにできた掛癖の痕は、それが布地のいたみを感じさせるよりも、もうかなり自分の身体に合つてくれたといふ馴染深なじみぶかさを感じさせた。だが、それは又同時に、河原町に帰つて以来の彼の生活を、その短くもあれば永くもあるやうな、まとまりのあるやうなないやうな一年あまりの月日を、多少とも何気ない風に示しているとも云へた。

    今頃になつて、男はさう訊き、盛子がそれに答へる前に、ひとりでうなづいていた。

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