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「お忘れかもしれませんが、高間道平の息子でございます。――今度、医者としてこの町へ戻りました者で――」
「すると、何ですか、十年契約といふやうなことにでもなすつたんですか」
と、入るや否や皆の前にひろげられた紙衣裳に目をつけた小谷は、ふだんよりもよけいきいきい声になつて愉快さうに云つた。この衣裳はその日の午前中に各戸に配られたのでどの家でも愉快な興奮をひき起したのである。町内の寄りでひよつと誰かが云ひ出したのは、もとより大隈首相をはじめ式典に参列する大官連の衣冠束帯からヒントを得たものであるが、結局紙製でといふことに話が落ちつくまでに、散々皆の頭をしぼり、賑かな笑声を立てたのである。が、実際に品物ができ上つてみると、想像していたよりもはるかに珍妙な仮装であることが判つた。しかも、いゝ年輩の戸主連がこの揃ひの紙衣裳で町を練り歩かねばならないといふことが味噌みそだつた。めでたい色だといふので赤が選ばれたのだが、何しろそれは安物の紙風船が雨にぬれて色が浸み出したやうなぼんやりした斑まだらに染め上げられ、触るたびにばさばさと大げさな音をたて、折目はぴんと立ち、皺はあくまで強情にしかもだんだんふえるばかりで裾だの袖口がをかしな風にまくれ上つて云ふことを利かないのだつた。いくらかへうきんなところのある小谷は、早速それを着用に及んで、座敷の中を威儀をつくつて歩きまはり、家の者の腹を抱へさせたので、その恐るべき効果は十分味つていたのである。で、他の家の主人達がどんなにそれを着こなすものか、今となつてどんなに尻ごみするものか、様子を見たくなつて、先づ手はじめに房一のところへ出かけて来たらしい。
やうやく三十に手が届いたばかりだが、苦労したのとその無骨な外貌のために年齢よりは四つ五つ老けて見える。がつしりと人並外れて幅広い肩はむくれ上るやうに肉が盛り上つて、何だか猪首のやうな印象を与へた。
練吉はふつと思ひ出し笑ひをした。それは微笑と云ふよりは、気の好い、何だかすべつこい、いくらか相手を軽蔑したやうな表情だつた。
「やつぱり徳さんが多いね」
「さうぢや」
「あなたの追鮎は元気らしいなあ」
「なに、訴訟?」
房一は鬼倉に向つて叮重ていちように云つた。
船体を洗ひ終つて、これから雑具にかゝらうとしたときだつた。彼はふと対岸に目をやつた。物音がしたわけでもなければ、気配を感じたのでもない。しかるに、そこの路の曲り角には、まるで符合したやうにその時きらきら光る真新しい自転車に乗つた男が現れたところだつた。
築堤へ登る段の所で、長い竿を持ち扱ひにくがつて立停つた房一の背後から、盛子はふいに呼んだ。
「せんせいですか」
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