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徳次は急に目くばせをした。
何となく身体が倦だるかつた。それにちがひはない、今日は珍しく朝早くから川につききりで、おまけに呼びもどされるとすぐ今の騒ぎだつた。埃で黄くなつた頭髪、泥と血の塊り、男の不安げな眼、それからあのいくらか仁義を切るやうな半シャツの甥の身構へだの、それらがもう一度頭の中に蘇よみがへり、一列になつて通つて行つた。
しばらく黙つていた後で、房一は
だが、練吉のひきつゞく不身持にはたつた一つの取柄があつた。それは隠し立てのないことだつた。どんな場合でもおほつぴらだ。そして、彼は云ふのだつた。――「おれは初恋の女がどうしても忘れられないんだ。親父やおふくろは、年の若い者の浮気位に考へてろくに相手にもしなかつたんだが、あの時頭ごなしに叱りつけないでいゝやうに舵をとつてくれたら、おれもこんな風にだらしなくはならなかつたんだ。あの女が忘れられないために、かうして次々とふしだらを重ねるんだよ。おれは子供の時から何でもかんでも、あれしてはいかん、これしてはいかんと圧へつけられて、まるで息がつけなかつた。それあ親父やおふくろは立派なきちんとした人達なんだ。それはそれでいゝが、僕は性質がちがふんだ。だらしないけれども、僕は僕なりに向きもあるし、考へもあるんだ。それをやかましく、やかましく押へつけられて、ぎうぎうにされて、おれは全くどうしていゝか判らなかつたよ。口に云へないほど辛かつたよ。そして、こんな風に変な人間ができたんだ。今さら、それを怨んだりはしない。だけど、おれは自分が思つた通りのことをどうしてもするんだ。これが真実だと思つたことは誰が何と云つたつて聞かないんだ。それが駄目なら死んだ方がいゝですよ。あゝ死にますとも。僕は何度もその決心をして来たんだ。たゞこの上迷惑をかけて、親父の名に泥を塗るやうなことになると困るからしないだけだ。いざとなつたらいつでもやつてみせますよ」
「ほう、クレーといふのはカワラケのことかね」
練吉はさういふ今泉の足もとを見、更にじろりと皺一つよらない衣裳を見上げた。何か疳にさはつたやうな色が動いた。そして、一言できゆつと相手をへこまさうとする時のやうに、神経的に口を曲げ、今にも云ひ出さうとした時、少し離れたところから手招きしている房一と小谷とに気づいて、そのままそつちへ行つてしまつた。
徳次は房一から聞かれるまゝに子供の数を答へたり、それから又思ひついて水神淵へ出る近路のことを念入りに教へたりした。無我夢中に近い気持だつた。だが、その間にも彼はあの眩しげな目つきで、時々房一を眺めた。するうち彼には、自分にとつてはたゞ漠然と雲をつかむやうにしか思へない「年月」が房一の中にはつきり現れているのを感じた。それは医師高間房一だつた。この何かしら驚くべき変化の中には、徳次すら一役買つているやうに思はれた。
半之丞の話はそれだけです。しかしわたしは昨日きのうの午後、わたしの宿の主人や「な」の字さんと狭苦しい町を散歩する次手ついでに半之丞の話をしましたから、そのことをちょっとつけ加えましょう。もっともこの話に興味を持っていたのはわたしよりもむしろ「な」の字さんです。「な」の字さんはカメラをぶら下げたまま、老眼鏡ろうがんきょうをかけた宿の主人に熱心にこんなことを尋たずねていました。
「をかしいから笑つたのだ」
「あんたの犬かね」
「えゝ、まだですが――何か御用?」
「ズブリと相手の眼の中へさしこんでしまつたさうでね。――親方すみません、とあやまつたと云ふんだが、どうもね、――何しろ他の人の見てる前でやるんだから、たまつたもんぢやない」
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