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「おい、早く早く」
と、やがて相手は訊き返した。声音は落ちついて低かつたが、その裏には場合によつてはまるで反対の強さに瞬時に変りかねないことを感じさせる力がこもつていた。
徳次は何かしら話に困つていた。で、彼は真面目な熱心な目つきで犬を眺めた。ところが、この犬まで普通のものとはちがふやうに思はれた。それは確かに「医者の犬」だつた。短い白毛の生えそろつた地はちつとも汚れていなかつた、茶斑の所は艶があつて上等の織物の模様みたいであつた。そして、全体に清潔でゆつたりしていた。
かうして、房一の帰郷開業はその生涯を劃する大きな変化でもあつたが、同時にあの古風な河原町の人達にとつても眼を瞠みはるやうな事件であつた。房一はめつたにない成功者として目された。地方の新聞には彼の苦学力行を賞讃する大きな記事が出た。
「それに、永い間この土地をはなれていたもんですから、土地の事情にもすつかり疎うとくなりましてね、これは一つ、どうしても今後こちらのお力にすがらないことには立つていけないと思つている次第ですが――」
肉が部厚に盛り上つているために自然と深くできた額の横皺、稍やゝ動物的な感じのする大きな眼玉、近頃その上に髭を蓄へはじめた厚いふくらんだやうな唇、それらのあまり美しいとは云へない部分々々を一つの形にまとめるやうに顔の下半から張り出している円い確しつかりとした案外柔味のある顎――盛子が結婚後最初に覚えたのはこの円い顎だつた。それは房一の顔に調和と落ちつきを与へていたばかりでなく、盛子の胸に何かしら安心と親しみ易さを感じさせた。
「さうですつてね」
徳次は又ぐらりとした。
「ふむ、もうよろしい、よろしい」
と、急に練吉が小耳にはさんで云つたのは、多分黙つて他のことを考へていたのだらう。
この廃坑は旧幕時代の末頃まではまだ採掘されていて、これあるがために河原町は当時幕府直轄の天領となつていた。そして、上流にある城下町の藩主が参勤の途上この河を利用して下る時、天領との間に何か紛争の糸口のつくのを憚はゞかつて、河原町の傍を通る間は舟に幕をはり、乗組の者は傍見をして下つたと云ふ。それほどであつたから、この領内の民は他領との縁組を嫌ひ、他領から移り住む者を許さなかつたし、狩猟とか交通とかその他様々な点で非常な横暴と特権とを許されていたものだつた。
まさしく、それは房一の癖だつた。何か用がとぎれた時、この廻転椅子に腰を下すや否や、肥満して幅の広い体躯の房一には窮屈さうに見えたが、案外しつくりと云ふに云はれぬ掛心持かけごこちがあると見えて、そのまゝ彼は今云つたやうな姿勢とぼんやりした考へに落ちこむのである。それは何かはまりのいゝところがあるらしかつた。真新しかつた時の天鵞絨びろうどの輝きこそなくなつたが、それはまだ円々としたふくらみを持ち、毛並みの上にかすかにできた掛癖の痕は、それが布地のいたみを感じさせるよりも、もうかなり自分の身体に合つてくれたといふ馴染深なじみぶかさを感じさせた。だが、それは又同時に、河原町に帰つて以来の彼の生活を、その短くもあれば永くもあるやうな、まとまりのあるやうなないやうな一年あまりの月日を、多少とも何気ない風に示しているとも云へた。
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