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「あ、いゝ、いゝ。なんでもありやしない。今すぐ行かう」
「先生!」
電灯のない時代はもちろん、その設備が出来てからでも、地方の電灯は電力が十分でないと見えて、夜の風呂場などは濛々もうもうたる湯気に鎖とざされて、人の顔さえもよく見えないくらいである。まして電灯のない温泉場で、うす暗いランプの光をたよりに、夜ふけのふろなどに入っていると、山風の声、谷川の音、なんだか薄気味の悪いように感じられることもあった。今日でも地方の山奥の温泉場などへ行けば、こんなところがないでもないが、以前は東京近傍の温泉場も皆こんな有様であったのであるから、現在の繁華に比較して実に隔世の感に堪えない。したがって、昔から温泉場には怪談が多い。そのなかでやや異色のものを左に一つ紹介する。
それは杉倉といふ所から来た。塔の山とは反対に、ずつと上手に河原町を出外れて、それから更に急坂を一里ばかり上つた所の、相沢といふ家だつた。相沢と云へばこの近所では誰も知らぬ者はない、そんな不便な土地でありながら大きな酒造家である。使ひの者が来て、急ぎはしないが明日あたりにでも往診してほしい、と云ふことだつた。房一にはそんな相沢みたいな家から往診をたのまれやうとは意外であつた。
「先づそのうちには、町内の様子もいろいろお解りになることでせう。これでなかなか面倒なこともありましてな」
二人は今船で流れの上を渡つていた。綱を手繰たぐる徳次のわきには房一が自転車のハンドルをつかまへて立つていた。全体に銀白色の金属でつくられたこの自転車はいかにも新しげだつた。それさへ、徳次の目には医療器具か何かのやうに特別な機械に見えた。
相手が急に三人にふえたためか、柵の中の長身な男は一層興奮した。
二階の部屋だつたので、障子を開けてみたが、空はどこも真暗らで所々にうすく星が光つていた。その静かな黒い拡がりがかへつて不気味だつた。すぐ下の通りではどの家も表の戸を開け放つたまゝ道路に出ていたので、屋内からの明りが方々から路面に流れ、立つて空を見上げている人達の半身を照していた。黒い人頭がざわざわと右に行き左に行きしていた。所々の家の切れたあたりは驚くほど暗かつた。鐘はまだ鳴つていた。それは今、さうはげしくはなかつた。だが、冴えてはつきりと、一所だけで鳴つていた。多分、左手のずつと先きあたりらしかつた。
道平は房一の後についてこの何もない座敷に入つて来たが、やはりあの子供じみたもの珍しさの色は消えなかつた。房一のすゝめるまゝに今度も腰を下さうとして、ちよつと尻はしよりに手をかけたが、そのまゝ止めて、ごく目立たない仕草で真新しい畳の上を避けながら、彼には坐り心地のいゝと見えた縁側で胡坐あぐらをかいた。
「鮒?――それあ喰べるとも」
房一は苦笑した。
この時、練吉が又小耳にはさんで訊き返した。が、明かにそれはさつきの小耳訊きとは様子がちがつていた。殆ど一人で盃を傾けていたせいもあるが、つい今まで沈んでいた練吉は僅かの間に一足とびに深い酔の中に入りこんでいた。
が、それは徳次であつた。
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