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「あ、いゝ、いゝ。なんでもありやしない。今すぐ行かう」
黒光りのする戸棚の蔭からびつくりしたやうな義母の円つこい眼がのぞくと、
「なあ、先生」
「連れっ子をして行ったです。その子供がまたチブスになって、……」
房一はむつつりとしたまゝ答へた。
「何でもないぢやないかね、君から聞いたとほりだ。心配することはないと思ふな」
「その首はどんな顔をしていた」と、友達のひとりが訊いた。
はるか下流の方で、鈍いが、重味のある大きな音が響いたのだ。それは、はじめぼおーんといふ風に聞え、つゞいてドカンドカンと来た。
「え?いや、居ましたよ、居ましたけど、別に――」
が、要するに房一が腹に据ゑかねて座を立つたのはもつともだ、といふことに落ちついた。何でもなかつた。鍵屋の隠居が面喰つただけだつた。房一の方から云へば、彼は自分の存在を認めさせることになつた。それは、手ごはい、喰へない男、としての「医師高間房一」だつた。そして、こんな風に善かれ悪しかれ人に取沙汰される男は、河原町ではきはめて興味ある存在にちがひなかつた。
「いや、人目がなきあそれどころぢや済まんでせう」
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