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    練吉との間はうまく行つた。少くともさう見えた。ところが、今度は茂子といふ女がどうしても正文老夫婦の気に入らぬのである。茂子は若い気の好い性質だつた。それだけに物事が不器用だつた。練吉の息子の正雄はこの新しい母親に馴染なじまなかつた。それが正文夫婦には茂子の大変な欠点に見えた。正文は今ではさすがに練吉についてはあきらめていた。その練吉に失望したところのものを、今この孫息子の上に期待しはじめていた。練吉の場合にはきびし過ぎて失敗した。愛情でなくては育たぬものだ、と今正文は確信した。その正雄は、練吉の度重る不始末の間に、正文夫婦の手もとで育てられていた。今更、それをどう見ても満足できない茂子に引渡す気になれなかつた。

    と、案外冷静に云つた。

    「ほう、いつから」

    「いや、危険はまづない見込だ。だが、何と云つたらいゝか――」

    きよろりとした眼でしきりと家の中をのぞきこみながら、しばらくして

    だが、当の大石医院へ行くまでに何軒かの家に寄り、何人かの男に会つて口を利いている間に、房一は或る気持の変化を感じはじめていた。それはかうだつた――彼は自分の生れたこの土地については、一から十まで知つているつもりでいた。河原町といふものが、そこに住んでいる人達が漠然と一かたまりになつて、云はば机の抽出に蔵ひこんである手帖のやうに、すぐその所在を確められるものとして感じられていたのだが、今日はじめてその一人一人にあたつてみると、今まで考へていたものとは可成りにちがふ何かしら別のものが思ひがけない感じで房一の顔を打つた。云つて見れば、彼は河原町の住民になつたのを感じた。これにくらべれば、彼が今まで感じていた河原町そのものは単にその外形であり、彼はこの町の住民ではなかつたとさへ思はれるのであつた。

    傷は三箇所を縫つた。

    と、それまで鹿爪しかつめらしい表情をくづさずにいた仲買の富田が、突然半畳を入れた。どつと立つた笑ひ声で、聞きとれなかつた者までがふき出した。

    肉が部厚に盛り上つているために自然と深くできた額の横皺、稍やゝ動物的な感じのする大きな眼玉、近頃その上に髭を蓄へはじめた厚いふくらんだやうな唇、それらのあまり美しいとは云へない部分々々を一つの形にまとめるやうに顔の下半から張り出している円い確しつかりとした案外柔味のある顎――盛子が結婚後最初に覚えたのはこの円い顎だつた。それは房一の顔に調和と落ちつきを与へていたばかりでなく、盛子の胸に何かしら安心と親しみ易さを感じさせた。

    富田はすぐ又自分の方に話をひきとつた。

    結婚してもう三四年になるが、いまだに出たり入つたりを繰り返している茂子は、練吉にとつては三度目の妻だつた。最初のは男の子を一人のこして去つた。二度目は半年もたゝないうちに大石の方から帰した。今度の茂子の場合だつて、当人も居辛からうが、大石の側でも面白くはない、どうでもいゝと云つた調子であつた。そして、ふしぎなことにはかういふ態度は大石の正文老夫婦から出ているので、練吉の方は吾不関焉われくわんせずえんといつた風があることだつた。

    房一は早くから競馬を見に行つていた。観覧席で相沢に会つたので挨拶した。訴訟の話を聞いた頃からずつと会はなかつたのである。相沢はあの特長のある黒味のひろがつた目で、やはり馴れ馴れしげにぐつと身体を近寄せて房一を眺め、彼の馬が来ていることを教へた。席が混んでいたので、それきり傍へ寄る機会がなかつた。休憩のとき、葭子張よしずばりの便所へ立つたかへりに、ちやうど相沢が向ふからやつて来るのにぶつかつた。彼はカーキ色の乗馬ズボンに拍車のついた黒革の長靴をはいていた。歩いて来るときに、その拍車が鳴つた。

    「獲とれましたか」

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