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    あの坊主は前からあんな頭をしていたのかしらん。――さう云へば、子供の時分いつしよに遊んでいるとき見たやうに思つた。――練吉はそんなことを考へていた。

    孫息子に手つだはれて、そろそろと縁側に腰を下すと、道平は何か云ひたげに盛子の顔を見まもつた。そして思ふことがうまく口に出ないときにやる、一心な、どこか苛々いらいらした目つきになりながら、殆ど癇癪を起しさうになりながら、やつと云つた。

    と、小谷が云つた。

    これはすばらしい銅板画のモテイイフである。黙々とした茅屋ぼうおくの黒い影。銀色に浮かび出ている竹藪の闇。それだけ。わけもなく簡単な黒と白のイメイジである。しかしなんという言いあらわしがたい感情に包まれた風景か。その銅板画にはここに人が棲んでいる。戸を鎖し眠りに入っている。星空の下に、闇黒のなかに。彼らはなにも知らない。この星空も、この闇黒も。虚無から彼らを衛まもっているのは家である。その忍苦の表情を見よ。彼は虚無に対抗している。重圧する畏怖いふの下に、黙々と憐れな人間の意図を衛っている。

    江戸時代ばかりでなく、明治時代になって東海道線の汽車が開通するようになっても、先まず箱根まで行くには国府津こうづで汽車に別れる。それから乗合いのガタ馬車にゆられて、小田原を経て湯本に着く。そこで、湯本泊りならば格別、更に山の上へ登ろうとすれば、人力車か山駕籠やまかごに乗るのほかはない。小田原電鉄が出来て、その不便がやや救われたが、それとても国府津、湯本間だけの交通に止まって、湯本以上の登山電車が開通するようになったのは大正のなかば頃からである。そんなわけであるから、一泊でもかなりに気忙きぜわしい。いわんや日帰りに於てをやである。

    と、今泉は一寸声をひそめた。

    一人は徳次で、もう一人は中肉中背の、だがそのやさしい女性的な顔立ちのためか、実際よりはうんと小柄に見える小谷吾郎といふ呉服雑貨店の主人だつた。彼の眼は黒瞳くろめがちで、やさしいうるほひがあつた。眉も恰好がよかつた。鼻筋もよく通つて、その下には稍やや肉感的な紅味のある唇が心持ふくらんで持上つていた。もしこの顔に、年配から来る自然の落ちつきと、どこか我儘な子供を思はせるやうな疳かんの強さといふ風なものがなかつたら、その女性的な顔立ちはきつと見る人に一種の悪感をかんを覚えさせたにちがひない。それに彼の声は細い疳高い響きを持つていた。

    房一が法事に行くので夕食の支度も別にいらなかつた。手持無沙汰のまゝ、盛子はぼんやり居間の縁側に腰を下して庭先を眺めた。前には築地塀がほの黒く横切つていた。そして葉の落ちた無花果いちじくの木がその奇怪にこみ入つた枝をまだ明みの多少残つている中空に張つていた。静かだつた。そして、何もすることがなかつた。右手の方には、つけ放しのまゝになつている台所の電燈が戸口から斜めに、風呂場へ通じる三和土たたきの上に一種きは立つた明さで流れていた。そこだけが不思議と生き生きして見えた。そして、その明りは突きあたりの風呂場の煤すゝけた壁にうすぼんやりと反映し、その横手の納屋の軒先を浮かばせ、他はたゞ暗い外気の中にぼやけ遠のいていた。

    間もなく房一が帰つて来たらしい。

    すると、何てこつた、下手の渡船場の対岸にひよつこり房一の姿が現れた。河原に出ようとするらしく、自転車を厄介さうにわきに抱へて、崖縁についた急な小路をのろのろと危つかしい恰好で降りて来る。やつと判つた。今の今まで、徳次はそこに渡船場があるといふことを度忘れしていたのだつた。

    貰った方でもそのままには済まされないから、返礼のしるしとして自分が携帯の菓子類を贈る。携帯品のない場合には、その土地の羊羹ようかんか煎餅せんべいのたぐいを買って贈る。それが初対面の時ばかりでなく、日を経ていよいよ懇意になるにしたがって、時々に鮓すしや果物などの遣やり取りをすることもある。

    客の心持が変ると共に、温泉宿の姿も昔とはまったく変った。むかしの名所図会めいしょずえや風景画を見た人はみな承知であろうが、大抵の温泉宿は茅葺屋根であった。明治以後は次第にその建築も改まって、東京近傍にはさすがに茅葺のあとを絶ったが、明治三十年頃までの温泉宿は、今から思えば実に粗末なものであった。

    「はあ、いや。もう手前どもは老いぼれ同然ですからな」

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