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「ねえ」
一番はしの家はよそから流れて来た浄瑠璃語りの家である。宵のうちはその障子に人影が写り「デデンデン」という三味線の撥音と下手な嗚咽の歌が聞こえて来る。
患者の多くは近在の農夫達であつた。それは大体に於いて、開業以前に予想していた通りだつた。鈍のろい、ゆつくりした口調で声をかけながら、彼等はおづおづと高間医院の玄関を入つて来る。彼等は医者に診てもらふためにわざわざ河原町へ出て来るのではなかつた。農具とか種物とかを買ひに出て、ついでに立寄るのであつた。それで、彼等の病気はすでに治療の時期を失しているか、でなければ手のつけられない慢性のものが多かつた。
「金色夜叉」はやはり小説であると、わたしは思った。
「いや、鳴つた。出張所の鐘がたしかに鳴つていた」
房一が入つて来るのを見たとき、練吉の顔には意外だといふ表情が浮かんだ。彼は房一の眼を迎へようとして一層高く頭を持上げたが、房一は気づかなかつたので、やがて、練吉はわざわざ座を立つて近づいて来た。
「あの山に田地を注ぎこんで裸になつたのは三人、わしも知つとる」
今泉にはやつと徳次の考へていることが判つたので、熱心に説明した。
さういふことで、彼は先づ一段の希望をかなへることができた。彼は二年間東京で法律書生として苦学したが、中途で方針をかへて医学をやることにした。これには例の伯父の意見が大分加はつていた。しかしこれも中途で兵役にとられたため、一寸一頓挫を来たした。彼は看護卒を志願した。二年の後彼は又東京へ出て来た。そこで様々な生活を経験した末、又もや医学をやる決心をかためた。その前後が彼としては一番危険な時期であつた。株式店につとめてみたり保険の外交員を志したり、それは自分の望みがいたる所で達しがたいと思はれる時の不安定な、投げやりにしてみたりとび立つやうな焦燥の念に駆られたりする、そして、様々な名誉や成功やが赭々あか/\と輝いて見える此の世間といふものの裏、物には必らず裏があるといふ事実をはじめて覚つて、そのために自分が素晴らしく大人になつたやうな気持にならされ、自分には世の中の裏を見抜く眼があるのだと過信する時期の、非常に不従順な暗い数々の失錯や不始末をやつた。その頃の彼は一体どんな職業に従事しているか解らないやうな風貌と服装をしていて、仲間のほかには誰も彼をあたり前な眼つきでは見なかつたし、彼の方でもそれを太々しく白眼視して過した。だが、仲間の一人が或る詐欺行為で警察に引つぱられて、彼も危ふくその連累を蒙るところであつたが辛うじて免かれた、その時以来彼はそんな生活に見切りをつけた。様々な関係から足を洗ふために、彼は一度故郷に帰つた。短い滞在であつたが、久しぶりに見る近親の温かさや故郷の山河が何年かの放浪生活のうちで疲れ汚がされ眠らされた彼の魂、成功の野心と正しい生活への慾望とをよびさました。
これは珍しいことだつた。鍵屋は房一の借家主の本家筋にあたつていたから、その関係を考慮して招いたのであらうが、房一はまだ河原町に古くからつゞいている家と家との関係から成り立ついはゆるつき合ひの範囲には入れられないで来たのである。鍵屋は河原町では一二の旧家だつた。したがつて、そこの法要へよばれることは、房一にとつては開業以来はじめて表立つた世間へ医者として顔出しすることを意味していた。恐らく、これをきつかけにして、房一はこれから先き河原町の世間に徐々に容れられることになるのだらう。それも、開業してから三ヶ月近くになる今日やうやく来たものだつた。そして、開業だの診察だのといふことよりも、今夜が河原町で医者として踏み出す第一歩だといふことを房一は見抜いていた。
と、練吉はわざとらしく顔をしかめてみせた。
小谷が対岸から流れを指しながら叫んでいた。房一の竿の前を渡渉とせふするので承諾を求めたのだ。
「さうだ」
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