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    彼の妻の茂子は昨日実家へ帰つたばかりで、この家にはいないのである。

    しばらく黙つていた後で、房一は

    「いや、これから往診に行くところだ」

    「今日はほんの御挨拶に上つたので、いづれ又ゆつくり――」

    「おとうちやん、どこへ行くの」

    「わしは反対だ!」

    房一は手足を洗ふと、簡単に診察着をひつかけて表へ廻つた。

    練吉の切れの長い目は片時もぱちぱちをやめなかつた。その度に、せきこむやうなどこか菓子をせがむときに子供の駄々をこねるのを思はせる調子の声が、もつれ気味につづいて出た。その青いと云ふよりは冷たさを感じさせる色白な額には、やはり上気したやうな紅味が浮んでいた。

    誰か遅れて来た者があつて、対岸のよい釣場に早く行かうとして腰まで水のとゞく急な流れを渡渉とせふしながら、危く水中に倒れさうになつてゆつくりした滑稽な身振りでもつて片手に竿を片手に追鮎箱を高く差し上げる、そんな様子を近々と認めても、他の者はほんの無関心な一瞥を投げるだけで、微笑すら現すことなく、すぐ又自分の竿の先に、水面に、追鮎の溌剌はつらつとした又しなやかな腹の捻ひねりやうにこらすのだつた。誰かが獲物を掛けたらしく、中腰になつて、大きく撓しなつたまゝで力強く顫へている竿を両手でゆるやかに引よせにかゝると、彼等は何かの気配でそれと悟るのか、いつせいに釣り手の方をふりむく。釣り手の及び腰の工合や、慌てて手網を探る恰好などから、彼等は獲物の大きさをおよそ知ることができる。一瞬羨しげな表情が彼等の上に共通して現れる。すると、彼等のうちの一人の竿が、突然強い引きを伝へて、それはググ……と快い持続的な引きに移る。つい先刻まで羨望の色を浮かべていたその顔は、今や恐しく愉快な緊張のために何だか調子外れな表情になつて、汗がその額を滑り落ちている。他の者は、自分の竿にも同じことがすぐさま起りさうな気がするために、熱心に前方を見まもりはじめる。今釣り上げたばかりの者がゆるゆると次の支度にかゝりながら、不漁の連中を眺めてやつているのに、後者は明かにそれと知つていて見向きもしない。急に日の暑さが感じられる。額から首筋にかけて汗のふき出るのがはつきりと判つて、それは拭ふのも忌々いまいましい位だ。獲物がばつたりと止まつて、誰の竿ももう大分永い間空しく動いている。彼等の間では、獲物から惹き起される興奮が言葉のやうな働きをしている。今はその興奮がどこにも現れないので、彼等はおたがひに一種の沈黙が皆を支配しているのを感ずる。

    「うん、もうさつき帰つたよ」

    「やあ。先日はどうも」

    心持照れ臭さげにしながらも、盛子は快活などこか家庭的な確しつかりさといつた風なものを現して、この一日造りの漁師達を眺めた。

    「ふうむ」

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