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    「いやネ、誰か赤山のことに精くわしい者はいないかつてんで、わたしの所へ来たのですね。まあ、案内するにはしたが、あの連中と来たら地の底でも見えるやうなことを云ふんで呆れたところですよ」

    それは背広姿に、遠目にもはつきりと判る緑色のソフトをかぶつた男であつた。

    それからしばらくの間、房一は来る人ごとに、会ふ人ごとに、見舞の言葉を云はれた。彼等は房一の紅黒い顔をまじまじと眺め、そこにその晩の出来事のかけらでも見つけられでもするかのやうに、又何かしら話をひき出さうとし、同情し、感嘆した。そして、きまつたやうにつけ加へた。

    「へえ、いえ」

    と、練吉は、彼等のわきにさつきから立つていた今泉に向つて、揶揄やゆするやうに訊いた。どういふものか、今泉の紙衣裳はちつとも痛んでいなかつた。これといふ皺もついていなかつたし、木沓さへ完全であつた。冠をつけ、まだ笏を心持構へた恰好で、こんなに皆が疲れ切つた様子をしているにかゝはらず、今泉だけはその稍冷い感じのする四角な顎を生き生きとさせ、あのつまみ立てたやうな鼻髭さへ床屋から出て来たばかりのやうだつた。

    が、練吉が駆け登つたのを見ると、先方の男は急に威丈高になつて怒鳴つた。

    一人は徳次で、もう一人は中肉中背の、だがそのやさしい女性的な顔立ちのためか、実際よりはうんと小柄に見える小谷吾郎といふ呉服雑貨店の主人だつた。彼の眼は黒瞳くろめがちで、やさしいうるほひがあつた。眉も恰好がよかつた。鼻筋もよく通つて、その下には稍やや肉感的な紅味のある唇が心持ふくらんで持上つていた。もしこの顔に、年配から来る自然の落ちつきと、どこか我儘な子供を思はせるやうな疳かんの強さといふ風なものがなかつたら、その女性的な顔立ちはきつと見る人に一種の悪感をかんを覚えさせたにちがひない。それに彼の声は細い疳高い響きを持つていた。

    と訊くと、遊び友達と河へ行つたといふ返事であつた。

    「まあ、それあ――」

    「高間さんと云ふと、――ふむ、そんなら、わしとこの者もんが度々御厄介になつとる先生ですかな」

    結婚してもう三四年になるが、いまだに出たり入つたりを繰り返している茂子は、練吉にとつては三度目の妻だつた。最初のは男の子を一人のこして去つた。二度目は半年もたゝないうちに大石の方から帰した。今度の茂子の場合だつて、当人も居辛からうが、大石の側でも面白くはない、どうでもいゝと云つた調子であつた。そして、ふしぎなことにはかういふ態度は大石の正文老夫婦から出ているので、練吉の方は吾不関焉われくわんせずえんといつた風があることだつた。

    「もう、だいぶようなつたですわ」

    だが、その幾日かも過ぎると、又あの、恐るべき変化を蔵しながら一見何一つ変つたこともないと感じさせる、単調な何気ない日々がつゞいた。何かしらはつきりし、又何かしらとりとめもなく、空は冷い輝きを増し、山々の稜線はかつきりとし、葉の落ちつくした雑木山はずつと遠くのものまでが殆ど信じられないくらいの細かい枝を無数に目に見させ、ブラッシの毛並みのやうな渋い赤褐色をどこまでもどこまでも拡げていた。

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