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    「ほう、さうか。それはちつとも知らなかつた」

    わたしはこの温泉宿やどにもう一月ひとつきばかり滞在たいざいしています。が、肝腎かんじんの「風景」はまだ一枚も仕上しあげません。まず湯にはいったり、講談本を読んだり、狭い町を散歩したり、――そんなことを繰り返して暮らしているのです。我ながらだらしのないのには呆あきれますが。(作者註。この間あいだに桜の散っていること、鶺鴒せきれいの屋根へ来ること、射的しやてきに七円五十銭使ったこと、田舎芸者いなかげいしゃのこと、安来節やすきぶし芝居に驚いたこと、蕨狩わらびがりに行ったこと、消防の演習を見たこと、蟇口がまぐちを落したことなどを記しるせる十数行ぎょうあり。)それから次手ついでに小説じみた事実談を一つ報告しましょう。もっともわたしは素人しろうとですから、小説になるかどうかはわかりません。ただこの話を聞いた時にちょうど小説か何か読んだような心もちになったと言うだけのことです。どうかそのつもりで読んで下さい。

    「ふうん。気楽な身分だね」

    云ひながら、腹帯の中からまるで金入れとは思へない位に大きな蟇口をとり出すと、十円札を何枚かつかんでいた。そして、ろくに返事も聞かないで房一に押しつけた。

    「おれは!――」

    今や、それらのことは遠くなつてしまひ、他愛のない子供の日の思ひ出でしかなかつた。練吉は両親の希望通り医者になつていた。しかも、事あるたびに、この幼時に押へつけられた日の悲しみが突然、練吉の中に溢れ、それは永い間に積つた憤りのごとく、彼の運命の唯一の手違ひだつたごとく、彼の不身持の云ひわけにもなり、又正文への訴へといふ一種矛盾した形となつて現れるのだつた。

    ちょうどその時我々は郵便局の前に出ていました。小さい日本建にほんだての郵便局の前には若楓わかかえでが枝を伸のばしています。その枝に半ば遮さえぎられた、埃ほこりだらけの硝子ガラス窓の中にはずんぐりした小倉服こくらふくの青年が一人、事務を執とっているのが見えました。

    人に話しかけるときにも半分はきまつて独り言のやうになつてしまふ義母はどうもつれ合ひの道平の癖が丸うつりになつたものらしい。だが、道平の声音こわねはあまり響かないぽつりぽつり石ころを並べるやうな調子だつたのにひきかへ、この義母のは突拍子もなく起つて又駆足で空の向ふに消えてゆくやうな大声だつた。

    「さうです、小倉組の方ですな」

    「あれから――あんたに鮒をとつて上げようと思つて、今さつきまで淵に附いとつたんだが、たつたこれつぽちきり獲れなくてね。上げるといふほどの物ぢやないけんど――」

    「なんだね、クレーの射撃なんてものは昔はなかつたもんだが、こなひだの競馬は僕も見たけれども、子供の時以来十何年ぶりのわけだが、あれはちつとも変つていないね。優勝の景品が米俵だなんてね」

    これは怪談どころか、一種の美談であるが、その事情をなんにも知らないで、暗い風呂場で突然こんな人物に出逢っては、さすがの柳沢権太夫もぎょっとしたに相違ない。元来、温泉は病人の入浴するところで、そのなかには右のごとき畸形や異形の人もまじっていたであろうから、それを誤り伝えて種々の怪談を生み出した例も少くないであろう。

    と、鬼倉は意外に思つたらしい。小首をかしげていたが、

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