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私はもともとヌル湯好きで、いつまでつかっても汗のでない程度が好きだ。
「一昨年の水で流れちやつたからそのまゝになつてるね――ずつと下にはあるが、さあ、そこへ廻ると半路はんみち以上ちがふかな」
練吉は路の傾斜のために自然とずり下りかけた自転車を引き上げようとして身体を動かした。そのはずみに、彼の横顔が房一のすぐ鼻先きにぐつと近づいた。練吉の頬はきれいに剃刀かみそりがあてられ、もみ上げから下の青味を帯びつるつるした皮膚にはこまかい汗がにじみ出ていた。そのとき房一は思ひがけなく練吉の匂ひを、髪や香油のそれではなく、何か練吉その人の匂ひを嗅いだ。
「あなたは、多分――」
「さうぢや」
この家は上手にある鍵屋といふ旧家の分家だつたが、或る事情でこの一年ばかりの間空家になつていた。こんな家を何も空家にして置かなくてもよかりさうなものだが、そして最初二三ヶ月の間は本家の鍵屋から留守番に人が来ていたのだが、間もなく手がかゝるためか閉めてしまつた。それと云ふのも鍵屋でさへだゝつ広く黴臭い自分の家を持てあましていたからである。鍵屋にかぎらず、維新前から明治大正にかけてひきつゞいた田舎の旧家はかなりの地主にちがひなかつたが、それは形だけは鬱蒼としているが幹が空洞になつた大樹のやうなものだつた。鍵屋はもとは名代の酒造りだつたが、当主の神原文太耶になつていつの間にか止めてしまつた。その代りでもあるまいが、神原はその当時この附近では珍しかつた法学士といふ肩書のためか、次第に政治に身を入れるやうになつて、今では歴年県会議長をつとめていた。家にはめつたに居ない。それで、昔のまゝに格子造りの鍵屋の表口はいつも半ば閉めたやうにひつそりしていた。その母屋おもやの横手から裏にかけてはもう何の役にも立たない古い倉庫が無暗みと大きな屋根と、あの風雨にたゝかれて黒ずんだ汚点しみのついた白壁とを突立てているきりだつた。
半之丞の豪奢を極きわめたのは精々せいぜい一月ひとつきか半月はんつきだったでしょう。何しろ背広は着て歩いていても、靴くつの出来上って来た時にはもうその代だいも払えなかったそうです。下しもの話もほんとうかどうか、それはわたしには保証出来ません。しかしわたしの髪を刈りに出かける「ふ」の字軒の主人の話によれば、靴屋は半之丞の前に靴を並べ、「では棟梁とうりょう、元値もとねに買っておくんなさい。これが誰にでも穿はける靴ならば、わたしもこんなことを言いたくはありません。が、棟梁、お前まえさんの靴は仁王様におうさまの草鞋わらじも同じなんだから」と頭を下さげて頼んだと言うことです。けれども勿論半之丞は元値にも買うことは、出来なかったのでしょう。この町の人々には誰に聞いて見ても、半之丞の靴をはいているのは一度も見かけなかったと言っていますから。
膿盆だの鋏、脱脂綿の袋などがまだ散らかつたまゝになつているのを片づけはじめた。
この町に一体火事なんて、いつあつたらう。たしか、三年前に一度、そして去年の春さきに小火ぼやが一度、それも藁火が離納屋に燃え移つただけのことで、それだのに殆ど町中がいや近在からも山を越して人が集り、提灯ちやうちんが集り、大変な騒ぎだつた。めつたにないどころではない、他のことは忘れても、この殆ど珍重すべき火事は、そのあつた年も、場所も火元の蒼白な顔も、ありありと覚えこんでしまはれるのだつた。
今や彼女の全体が、一箇の人間としてのあらゆる陰影を含む全性格が何かしら重要な変化を来した。初産のためか下腹部のふくらみはさう目立つほどではなかつたが、それでもあの特長ある身体つきを変へるには十分だつた。全体にひどくゆつくりした、内省的な落ちつきが支配していた。たゞ眼だけが、張りのある眼だけが稍神経質なうるほひを帯び、どこかとび出したやうに見え、一種の弱々しさと複雑さがそこに動いていた。ふしぎな変化だつた。そこには五六ヶ月以前の盛子の代りに、盛子によく似た、だが何かぽつてりとした、重たげな、ゆつくりした女がいた。あの長身が別に寸つまりになつたわけではなかつた。しかるに以前の靱しなやかさは姿を消してしまひ、又あの特長ある語尾の跳ね上りも聞えなくなつてしまつた。張りのある眼も、いつも下腹に気をとられているためか、何となく伏目の感じになつていた。が、どうかした瞬間、びつくりしたり感動したりするときにだけ、突然あの盛子が殻を破つたやうに顔を出すのであつた。それはあの、結婚当初の盛子といふよりも、すでに十分成熟した、娘らしい硬かたさのすつかりとれ切つた、眩まぶしさのない代りに何か直接的な女らしさといふやうなものであつた。
いきなり忙せはしなく立上ると庫裡へ走つて行つて、間も無く茶器を揃へた盆を自分で持ち運んで来た。長い胴を折り曲げるやうな危つかしい調子で房一の前に置くと、
「いや、なに」
「あんたの犬かね」
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