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    「わたくし儀ぎ、金がなければお前様まえさまとも夫婦になれず、お前様の腹の子の始末しまつも出来ず、うき世がいやになり候間そうろうあいだ、死んでしまいます。わたくしの死がいは「た」の字病院へ送り、(向うからとりに来てもらってもよろしく御座ござ候。)このけい約書とひきかえに二百円おもらい下され度たく、その金で「あ」の字の旦那だんな〔これはわたしの宿の主人です。〕のお金を使いこんだだけはまどう〔償つぐのう?〕ように頼み入り候。「あ」の字の旦那にはまことに、まことに面目めんぼくありません。のこりの金はみなお前様のものにして下され。一人旅うき世をあとに半之丞。〔これは辞世じせいでしょう。〕おまつどの。」

    と云ったそうだ。

    「――さうだな」

    房一の竿に最初のやつが掛つた。

    それは盛子だつた。きりつとした割烹着の姿は彼女の伸びやかな身体の特長をよく現はしていた。

    「ほう。元気だね。ハッパでやられたかね」

    私は東京にいたころから、一日に三度四度ずつ入浴する習慣だった。しかし、うすい木でつくられた普通の沸し風呂では、冷めるのが早く、たけば熱く、こんな忘我の状態を経験することはできなかった。

    「よろしい。承知した」

    「あの人は来まいて」

    房一は怒つたやうな嘲あざけるやうな調子であつた。その顔は何故か黒ずんで見えた。そして、目がぎらついていた。

    その空地の隣りに低い築地塀ついぢべいをめぐらした家がある。築地はもう何十年かあるひはもつと前に造つたものらしく、所々の壊れた荒壁を後から後から塗りなほした箇所がそれぞれ違つた土の色をして、それさへ剥はがれかゝつている。だがその築地の内側にある家はこれも外まはりに劣らず古い低い平家で、外から見ると、築地の上にそのだゝつぴろい大きな屋根がまるで、伏せをした恰好に見えるきりだ。そんな風にかこまれているので、外部から覗かれる家の有様と云つたら、ちやうどそこだけ築地が中に向つて露地のやうな様子で切れこんでいる家正面の入口だけだつた。それも、今ではよほど田舎へでも行かないと見られないやうな、広い黒ずんだ欅板けやきいたの式台と、玄関の障子の両側には黒塗りの横桟の入つた脇戸までがついた、恐しく奥まつた、人間で云ふと極端に内気な独身の四十男のやうな様子をしていた。

    徳次は房一から聞かれるまゝに子供の数を答へたり、それから又思ひついて水神淵へ出る近路のことを念入りに教へたりした。無我夢中に近い気持だつた。だが、その間にも彼はあの眩しげな目つきで、時々房一を眺めた。するうち彼には、自分にとつてはたゞ漠然と雲をつかむやうにしか思へない「年月」が房一の中にはつきり現れているのを感じた。それは医師高間房一だつた。この何かしら驚くべき変化の中には、徳次すら一役買つているやうに思はれた。

    それは何かしら長い退屈な時間だつた。香煙はまつすぐに立ちのぼり、二尺ばかりの高さでゆらゆらし、蝋燭の灯はそれに答へるやうにまたゝいた。さつきまで思ひ思ひの世間話に身を入れていた連中は一瞬厳粛になり、それから放心し、今一律に無表情のまゝぢつとしていた。その中で、大石練吉は今も頭をまつすぐに持ち上げて仏壇の方を眺めていたが、間もなく千光寺の住職の剃り上げた後頭部に人並外れて骨が突出し、その下にぺこんとした凹みのできているのを発見し、しきりとそれを見つめていた。

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