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    今や彼女の全体が、一箇の人間としてのあらゆる陰影を含む全性格が何かしら重要な変化を来した。初産のためか下腹部のふくらみはさう目立つほどではなかつたが、それでもあの特長ある身体つきを変へるには十分だつた。全体にひどくゆつくりした、内省的な落ちつきが支配していた。たゞ眼だけが、張りのある眼だけが稍神経質なうるほひを帯び、どこかとび出したやうに見え、一種の弱々しさと複雑さがそこに動いていた。ふしぎな変化だつた。そこには五六ヶ月以前の盛子の代りに、盛子によく似た、だが何かぽつてりとした、重たげな、ゆつくりした女がいた。あの長身が別に寸つまりになつたわけではなかつた。しかるに以前の靱しなやかさは姿を消してしまひ、又あの特長ある語尾の跳ね上りも聞えなくなつてしまつた。張りのある眼も、いつも下腹に気をとられているためか、何となく伏目の感じになつていた。が、どうかした瞬間、びつくりしたり感動したりするときにだけ、突然あの盛子が殻を破つたやうに顔を出すのであつた。それはあの、結婚当初の盛子といふよりも、すでに十分成熟した、娘らしい硬かたさのすつかりとれ切つた、眩まぶしさのない代りに何か直接的な女らしさといふやうなものであつた。

    「ねえ、高間さん。まあ、こつちへお寄んなさい」

    房一は先に立つて行つた。居間も座敷も畳が入れかへてあつた。だが、家具らしいものの何一つないこの大きな部屋には何かちぐはぐな乾いた空洞のやうな空気があつた。部屋の向ふには裏手の築地で四角に仕切られた庭があつた。そこにも目につくやうなものは何もなかつた。土の上に新しく削りとつた雑草の痕跡が一杯にのこつていた。その急に日向ひなたに出され、人の足に踏まれて顔をしかめたやうな土のひろがりの向ふには、低い築地とその際にたつた一本だけかなりに大きな無花果いちじゆくの樹がぼつさりと茂つていた。その葉裏にかすかに色づいた円つこい果の色だけがふしぎと生ま生ましい。

    「さうだ」

    房一は苦が笑ひをした。

    「きさまか、鬼倉ちふのは」

    ところが、徳次はぽかんとした表情を浮かべたきりだつた。

    「今日はえらい早いお帰りだね」

    知吉は二十年前に養蚕の教師としてこの町にやつて来た。相沢家の一人娘だつたあいはその講習生の中にいた。二人の間に恋愛が生じた。相沢の先代章助は神原家から養子に入つた人で、神原の隠居直造の弟にあたる。昔気質むかしかたぎの一克いつこくな性分ではあるし、むろん一人娘と知吉との間を許す気はなかつた。ところが、ふしぎなことが起つた。あまり美しくもなく、その単純な性質と温和おとなしさが何よりの取柄だつた娘のあいは、知吉にどんな魅力を感じたものか父親の意見には挺てこでも動かない大胆さを示したのである。その頃知吉は四五里先の村へ養蚕を教へに行つていたが、あいはそこへ奔はしつた。つれ戻され、又出るといふごたごたを繰り返したあげくに、たうとう相沢章助も不本意ながら黙認せざるを得ないことになつた。けれども知吉を嫌つて家へ入れなかつた。さういふ章助の態度に反撥を感じた知吉は、今に見ろと思つたにちがひない、東京へ出て法律を勉強した。あいはむろん同行した。五年かゝつたが弁護士試験には及第しなかつた。するうち、あいとの間に市造が生れたので、間に口をきく人があつて河原町に帰つて来た。帰郷してみると、章助は甥にあたる神原喜作を養子として迎へていたし、知吉は相沢家へ入れられずに依然として冷淡な待遇をうけた。もつとも、章助は孫の市造には目がなかつたので、それにひかされて止むを得ず知吉を入籍した。喜作は神原家にもどつて分家を継いだ。財産の譲渡はその時行はれたのである。だが知吉は入籍しても別に一戸を持ち、小学校の教師をしていた。やうやく章助の気が折れて、知吉は相沢家に迎へられたものの、章助との間がうまく行く筈はなかつた。先年章助が死歿するまで、知吉としては腹につもる不満をぢつと押へていたわけである。さういふ成行は、悪く解釈すれば、どんな扱ひをうけても相沢家の一人娘のあいを手中に握つて今日の日を待つていたと云ふことにもなりがちであつた。要するに、今日にいたるまで知吉の味方はあいの他には一人もなかつたといふことになる。さういふ知吉は、先代がそこの出である神原家に対しても分家の喜作に対しても快く思ふ筈はなかつた。弁護士にはなれなかつたにしても、知吉には法律の知識があつた。鍵屋の側から云へば苦手だつたかもしれない。どんな風にして知吉が鍵屋へ交渉をはじめたか知る由もないが、隠居の直造はそれ以来知吉を三百代言のやうに忌いみ嫌つていた。相沢と鍵屋とは絶縁同様だつた。

    「ねえ、大変!早く」

    向ふでも房一を認めたらしい。さう思はれる仕方で、ぐつと速力をゆるめながら、だんだん近づいて来る。はじめは房一の方にこらしていた目を途中で一寸伏せ、又何気ない風にこちらを眺めながら降りて来た。

    「さうだな、相沢の先代はひどく知吉さんを毛嫌ひしていたさうだな。だが娘がくつついているから仕方がないといふわけでね。――だから、甥にあたる喜作さんを養子にして、それに老後をかゝるつもりだつたのだらう。その時、喜作さんの方に財産を分けたんだよ。ところが、娘が男の子を産んだ。今の市造といつたかな。嫌ひな知吉の子でも、孫にはちがひない、孫は可愛いゝといふわけでね、喜作さんにはそのまゝ財産をつけて神原の方へ籍をもどしたんだな。――それを今かへせといふわけよ」

    老父に注意されるまでもなく、房一は河原町で医師として立つて行く上の先々の困難は十分心得ているつもりだつた。どんなに房一が成功者と目されたところで、一方では彼が河場の一介の百姓息子にすぎなかつたことを河原町の人達は忘れていはしなかつた。その上、河原町には古くから根を張つた大石医院といふものがあつた。

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